自分の世界を海外視点で振り返る

僕は、異文化の考え方に強く興味をそそられることがある。僕がまだ経験したことのない、見たことない、よくわからない。そんな異文化の考え方への興味が止まらなくなる時がある。なぜだろう?恐らく、僕はまだ、自分の生き方や考え方が定まっていなくて、模索しているからなんだと思うのだ。

最近は、僕は昔住んでいたイギリスに関する書籍を読んでいる。題名は、「適当だけどなぜか幸せなイギリス人 真面目だけど苦労が多い日本人」という、だいぶ煽り気味なものだ。僕は正直、こういった煽り気味な題は嫌いだなんだけれど、読んでみることにした。

そこにはイギリス人の生活や考え方が、イギリス在住の筆者のトラブルや職場での出来事を通じて書いてある。そしてこれを読むと、やはり自分は日本の文化に染まっているということが再認識できる。

日本だと、家の水道にトラブルがあった場合、電話すればすぐに工事に来てくれる。ところが、イギリスの場合はそうはいかない。電話しても、いつまで経っても来ないということがあるようだ。

じゃあなぜそんなことが起きるかというと、実入りの良い方の仕事を業者が優先するだとか、単純に時間にルーズだ、というのが理由にあったりする。

日本だと、仕事を始めるときにタイムカードを押すという形で労働者の労働者を管理するんだけれど、あっちだとそんなものがないようだ。そもそも、公共交通機関自体が時間通りに動かないケースが多く、時間通りに皆が仕事場に揃うということがないと。

そして仕事場についてPCに向かっているとしても、やれ職場の人と雑談のメールをしたりだとか、週末に行くお店のリサーチや予約をしたり、結構ルーズに働いている、というのが実情なようで。

こうしたイギリスの生活様式や人の様子を知ると、やはり自分は日本っぽく染まっているのだなあと思う。仕事に対して真面目に取り組むし、若干残業してでも仕事を終わらせたりする。(あっちだと、わざわざ残業してまで仕事をするということ自体、ありえないようで)

そして、こういう文化を知ると、自分に改めて問いかけることができるのが好きだ。「僕は、どっちの価値観を取りたいだろう?好きだろう?」と。

もちろん、日本的な考えによって、この完璧なまでに便利な日本社会は成り立っている。ミスを極力減らしたスムーズな社会。とても便利だ。そしてそれを僕は享受している。

しかし同時に、「僕らが互いにこうした完璧性を求めるからこそ、互いに完璧にならねばならないと苦しめる」ということにもなっている。一人ひとりが求めるものが、社会を作って、そして自分に返ってくるのだ。

イギリスの場合は、「僕らが互いにルーズさを求めるからこそ、互いにルーズでいられる」ということになっている。互いに適当であるがゆえに、不便が起こる。でも、それで良いということになっている。

しかし、なんでそんな考えを持つにいたるのだろう?結構日本人として染まっている自分からすると、そこがわかりにくい。だからこそ、知りたい。どういう思考プロセスで、どんな生活をしているのか。

僕らは日本で基本生きているから、外の世界から断絶されている。そもそも海外の人が少ないし、『日本語圏』という壁によって断絶されている。だからこそ、日本という文化圏から出ないで生きることができるし、それがゆえに他国の価値観に触れる機会が極端に少なく、日本的な考えが人類の常識だと思ってしまう。

でも、そんなことはない。だから、海外の価値観に触れると、改めて自分の価値観に疑問を投げかけることができる。それが面白いと思う。

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