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ホイットニー・ヒューストン I WANNA DANCE WITH SOMEBODY

近年の音楽アーティスト系伝記映画の一つの指標になったと言っていいのが、フレディ・マーキュリー(故人)を中心にクイーンを描いた「ボヘミアン・ラプソディ」だ。

2018年度のアカデミー作品賞にノミネートされ、ゴールデン・グローブ賞のドラマ部門作品賞を受賞したほか、本編では次から次へと名曲やヒット曲の数々が本人たちの演奏で流れたことから、新たなクイーン・ファンを生むことになった。

また、こちらは現役アーティストの話だが、2019年度のゴールデン・グローブ賞ミュージカル・コメディ部門の作品賞にノミネートされたエルトン・ジョンの伝記映画「ロケットマン」ももう一つの指標と言っていいと思う。
こちらは、フィクション要素も混ぜたミュージカル作品として作られていて、楽曲はエルトン本人ではなくエルトン役のタロン・エガートンの歌唱バージョンとなっている。そのかわり、エルトンの歌唱は同作用に作られた新曲でアカデミー歌曲賞やゴールデン・グローブ賞主題歌賞を受賞した“(アイム・ゴナ)ラヴ・ミー・アゲイン”で聞くことができる。

本作「ホイットニー・ヒューストン I WANNA DANCE WITH SOMEBODY」は、故人を描いていること、本人の音源を使っていることや(正確には一部でホイットニー役のナオミ・アッキーが歌唱している)、ミュージカルではなくドラマ作品として作っていることなど、基本的な作りは「ボヘミアン・ラプソディ」と同じだ。というか、脚本家も同じだ。

にもかかわらず、興行成績の面でも批評の面でも「ボヘミアン・ラプソディ」には遥かに及ばない状況となっている。それは米国でも日本でもそうだ。


というか、日本で期待されていないのは邦題の付け方でも分かる。邦題でサブタイトル的に英語で表記されている“I WANNA DANCE WITH SOMEBODY”は本作の原題であると同時に1987年にリリースされたホイットニーの全米ナンバー1 ヒット“すてきなSomebody”の原題でもある。

「ボヘミアン・ラプソディ」はクイーンの代表曲“ボヘミアン・ラプソディ”と同じ邦題表記になったし、「ロケットマン」も何故か、ナカグロが取れてしまってはいるが、エルトンの人気曲“ロケット・マン”とほぼ同じ邦題表記だ。

でも、本作を“すてきなSomebody”としなかったのは、これでは日本では話題にならないと思ったのだろう。
エルトンの“ロケット・マン”は一般的な知名度は低いかも知れないが、70年代のロック好きの間では名曲として認知されている曲だ。
でも、“すてきなSomebody”は80年代洋楽世代には大ヒット曲として認知はされているが名曲としては思われていない(個人的には大好きな曲だけれどね)。
同じヒット曲をタイトルにするのでも、“すべてをあなたに”とか“グレイテスト・ラヴ・オブ・オール”だったら、80年代洋楽世代に名曲として認知されているし、最大のヒット曲“オールウェイズ・ラブ・ユー”(現在はラヴ表記)なら若い世代にもアピールできる。でも、“すてきなSomebody”だからね…。そりゃ、映画の邦題を“すてきなSomebody”にしないのも納得かな…。

まぁ、エルヴィス・プレスリーの伝記映画のタイトルは「ラヴ・ミー・テンダー」や「好きにならずにいられない」でなく、「エルヴィス」だったりするから、本作の邦題が「ホイットニー・ヒューストン」でもいいのかも知れないけれどね。

そんなわけであまり期待せずに見たが、結論としては結構面白かった。2時間24分とそれなりの尺があるが長さも感じなかったしね。

ただ、「ボヘミアン・ラプソディ」や「ロケットマン」、「エルヴィス」のように賞レースで評価されないのも納得といった感じの出来だった。

焦点が絞り切れていないんだよね。

以下、気になった点を列記しておく。

●単なるダイジェストになってしまっている
初主演映画「ボディガード」の撮影とか、スーパーボウル開会式での国歌独唱など丁寧に描けば面白くなる要素はいくらでもあるのに、どれもツッコミが足りない。「ボディガード」ならケビン・コスナー役の俳優を用意しているんだから、彼との会話シーンを入れるべきだし、スーパーボウルにしても実際は事前録音した音源に口パクしていだけなのに、それにも触れていない。そういえば、フライオーバーの戦闘機、いかにもCGで作りましたって感じのショボいやつだったな…。

●音楽史的におかしなところがある
「ボヘミアン・ラプソディ」でも確かにおかしなところはあった。劇中では80年代初頭に解散の危機を迎えていたクイーンが“ウィ・ウィル・ロック・ユー”を生み出したことにより、その危機を克服したみたいに描かれていたが、実際は同曲は77年にリリースされているしね。
だから、本作で1stアルバムのレコーディング風景のシーンに2ndアルバムからの4thシングルとしてカットされ、全米ナンバー1 になった“ブロークン・ハーツ”が出てきたり、終盤に88年に発表されたソウル五輪の米中継番組用のテーマ曲(米国のテレビ局も日本同様、国際的なスポーツイベントで本来の公式テーマ曲を無視して独自のテーマ曲を使ったりするんだよね…)となった“ワン・モーメント・イン・タイム”が流れたりするのはよしとしよう。ストーリーの流れでハマる曲を使ったということなんだろうから。

でも、データ的なものはきちんとしてほしいと思う。
作中で、ホイットニーの“育ての親”とも言えるプロデューサーのクライヴ・デイヴィスが、3本の主演映画を撮り7枚のシングルを出しただけと言っていたが、これってどういう計算なんだ?
この3本の映画のサントラ盤からは米国でフィジカルのシングルとして正式にリリースされたものだけでも10曲がシングル・カットされているし(プロモーション・シングルとしてエアプレイ・チャートなどでヒットした曲も含めればシングル曲はもっとある)、そのうち9曲は全米トップ40ヒットとなっている。どういう数え方でシングル7枚になっているんだ?

●LGBTQ要素が中途半端
ホイットニーと彼女のスタッフでもあった親友ロビンとの同性愛的関係が描かれているが、「ボヘミアン・ラプソディ」のフレディのように自分は異性が好きなのか同性が好きなのかで悩むようなシーンもない。
また、クライヴ・デイヴィスがゲイ(どうやら、正確にはバイらしい)であるという描写もあるが、さらっと描くだけで終わってしまっている。
おそらく、クライヴはホイットニーとロビンの関係を知っていたはずだから、史実とは異なるかも知れないが、彼がホイットニーやロビンに助言する場面があっても良かったのでは?

●人種問題の描写も中途半端
まず、こういうことを言うと今のポリコレ至上主義の欧米では差別になってしまうのかも知れないが、ホイットニー役のナオミ・アッキーのルックスが黒人要素が強すぎるんだよね。
白人にも人気が出るくらい、モデルのようなルックスだったというのが感じられないんだよね(まぁ、見ているうちに慣れてくるけれど)。

そのルックスやポップなヒット曲などから白人にも支持され、それが一部の黒人からはセルアウトと捉えられて批判されたというのは事実であり、作中でも描かれてはいるけれど、「ボヘミアン・ラプソディ」のフレディや、「ロケットマン」のエルトン、「エルヴィス」のエルヴィスのように、差別や偏見に悩んだり、それに抗おうとしているような描写もほとんどない。

せっかく、白人にも支持されたスーパースター、マイケル・ジャクソンのポスターが映ったり、白人とのハーフであるアリシア・キーズの名前が出てきたりしたんだから、それをうまく活かして人種問題に関する言及もしっかりとできたはずなのにね。

それから、R&B色を強めるために(=黒人向けのサウンドにしようと)3rdアルバムでL.A.リード&ベイビーフェイスと組んでみようという話を出しておきながら、この2人は出てこないし、この2人と組んだ楽曲“アイム・ユア・ベイビー・トゥナイト”もその直後ではなく、だいぶ経ってからのシーンにならないと流れないという構成も意味不明。

●身内との関係に悩む描写も中途半端
ゴスペル歌手である母親のシシー・ヒューストンに虐待一歩手前の厳しさでしごかれた場面は冒頭に出てきたりもするが、母との関係に悩むような描写も曖昧にしか描かれていない。
ディオンヌ・ワーウィックがいとこであり、名付け親がアレサ・フランクリンであることに言及はされているものの、ディオンヌもアレサも作中には登場しない。
マネージャーを務めた父親の問題(浮気癖やホイットニーが稼いだ金の私的流用など)もさらっと描くだけで、身内がマネージャーを務めることで起こる問題を深掘りするわけでもない。
また、両親が不仲であることが、のちのホイットニーとボビー・ブラウンとの結婚生活がうまくいかないことにつながったと思うのが普通だが、はっきりとそういうメンションもしない。
また、ボビーと付き合う前から薬物はやっていたようだが、ボビーとの結婚生活によって薬物依存が悪化したようにも描かれていない。

おそらく、関係者に配慮しまくった結果、中途半端な描写になってしまったのでは?
まぁ、本作のスタッフにクライヴ・デイヴィスやロドニー・ジャーキンスなんていう音楽関係の大物が名を連ねているから、誰かを極端に悪く描けなかったんだろうね。

ボビーと言えば、“マイ・プリロガティヴ”のパフォーマンス・シーンが出てくるが、歌っているパートは使われていないのは何故?楽曲自体の使用許可は出たが、歌唱部分の許可はおりなかったってこと?

そんなわけで、リアルタイムでホイットニーのヒット曲に接してきた者からすると、楽曲が流れるだけで盛り上がれるんだけれど、細かいところが気になってしまい、どうしても批判したくなるって感じの作品だった。

それにしても、日本語字幕が酷いね。
いくら、文字数に制限があるとか、洋楽をよく知らない人に対する配慮したとか、そういう理由があるとはいえ、アメリカン・ミュージック・アワードを全米音楽アワードって訳すのはダメでしょ!だったら、固有名詞にせず、曖昧な音楽賞でいいじゃん!

《追記》
そういえば、80年代後半ってラジオでかかる洋楽はマドンナやホイットニーばかりで嫌になりかけていた時あったんだよね。勿論、好きな曲もあったんだけれど、あまりにもどの番組を聞いても流れているみたいな状態で耳タコになっていたからね…。
マドンナは“オープン・ユア・ハート”あたりで、ホイットニーは“やさしくエモーション”あたりでその症状を克服できたのかな。

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