「僕愛」「君愛」2作同時公開の必要はあったのか?
低予算映画やOVAのイベント上映作品などではシリーズものの複数のエピソードが同時もしくは連続で公開されることがある。また、こちらはある程度、バジェットの規模が大きな作品に多いが、2部作(前後編)として作られたものもこうしたパターンの一種に含めていいのではないかと思う。さらに、基本的な内容は同じだけれど、視点など細部が異なる2つのバージョンの同時or連続公開なんてものもある。
その一方で、登場人物や設定などは異なるものの世界観が共通する作品を2作同時、もしくは連続で公開するというケースもある。
硫黄島の戦いを米国、日本それぞれの視点で描いたクリント・イーストウッド監督による2部作「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」はこうしたタイプの代表作と言っていいのではないだろうか。
ただ、こういう種類の2部作というのは片方の作品だけがヒットする、評価されるという可能性が高くなってしまうことが多い。
硫黄島2部作は米国では、米国視点で台詞が英語の「父親たちの星条旗」はヒットしたものの、日本視点で台詞が日本語の「硫黄島からの手紙」は興収ランキングのトップ10には入らなかった。
その一方、賞レースでは逆の結果となった。「硫黄島」はアカデミー賞では作品賞や監督賞、脚本賞といった主要部門を含む4部門で候補に上がったが(受賞したのは音響編集賞のみ)、「星条旗」は録音、音響編集の音響系の2賞(現在は統合されている)にノミネートされただけで終わっている。
こうなる理由はいたって明白だ。登場人物が異なるというか出演俳優が異なるからだ。
日本の俳優を知らない平均的な米国の映画ファンは「星条旗」は見ても「硫黄島」には興味を持たない。
ジャニオタは二宮和也目当てに「硫黄島」は見るが「星条旗」は見ない。
ハリウッドの巨匠が米軍の話をきちんと描けるのは当たり前としか思われないが、旧日本軍の話を日本を舞台に日本の俳優を使い日本語の台詞で描いたら感心してしまう。
そういうことだ。
だから、こうした同じテーマを別視点で描く2部作というのはかなりチャレンジングな取り組みになってしまう。
「冷静と情熱のあいだ」の原作小説は江國香織による女性目線によるストーリーと、辻仁成による男性目線によるストーリー、それぞれが別に発表されていたが、映画は1本の作品として作られている。メインの2人の立ち位置が変わるだけの内容でも、2本の映画にするのをためらうくらいなのだから、やはり、別視点による2部作というのは映画にしにくいということなのかな?
本稿で取り上げる「僕が愛したすべての君へ」「君を愛したひとりの僕へ」の2部作は主人公は同じだし、ボイスキャストも同じだ。ただ、ヒロインなど周囲の登場人物の立ち位置は異なっている。
なので、硫黄島2部作と「冷静と情熱のあいだ」の中間のような作りと言っていいのだろうか。
そんなわけで2作を続けて見ることにした。どちらを先に見るかで結末の印象が変わるということを売り文句にしていたが、自分はポスターの配置やホームページの表記が、「僕愛」→「君愛」という順番になっていたので、これにならって、「僕愛」から見ることにした。
「僕愛」を見終えた際に思いついた言葉はクソ映画の一言しかなかった。
パラレルワールドの設定がガバガバなことも気になった。自分の世界で死んだ者(動物含む)がパラレルワールドでは生きている(その逆もあり)っておかしいよね?
しかも、これは、「君愛」で分かることだけれど、どうやら、“こういう世界観のパラレルワールドに行きたい”と思うだけでその世界に行けるらしい。金と時間をかけて研究したシステムがそれって…。呆れてしまう…。
というか、こちら側の人間が一方的にあちらに行きたいとなったら、あちら側の人間は突然、その世界からいなくなるわけだから迷惑もいいところだ。まぁ、無意識のうちにパラレルワールドに行っていることがあるという言及が作中でされていたのは、そうした矛盾点を指摘がされることを分かっているから、それをごまかすために言っているんだろうなという気はするが。
あと、子どもや孫のことを考えたら違う世界でも同じ相手と結婚しないとおかしいと思うんだよね。
主人公の両親が離婚するか否か。主人公が離婚した父親についていくか母親についていくか。それから、「君愛」で描かれているが、父親が職場の上司と再婚するか否かというのは、おそらく、両親や父親の再婚相手が子づくりするような年齢ではなくなっているので、主人公の子どもや孫の誕生には影響しないのかもしれないが、主人公が好きになる相手が変わるのはダメなのではと思う。
結局、そうした矛盾やデタラメ設定をごまかすために、この2部作では、次元の移動だけでなく、場所の移動や記憶消去とかタイムリープ的な設定まで加味されているのだとは思うが、設定を盛り込みすぎたせいで、余計、めちゃくちゃな世界観になってしまったのでは?
「僕愛」の終盤で主人公が本当に好きな女の子は「僕愛」でヒロインとして描かれた女子ではなく別の女の子だということが判明するが、本当は好きではない女子と付き合い、子どもや孫まで作るという展開にするには、こういう設定にしないと成立しないってことなのかな?
まぁ、本当に好きな女の子の方が明らかにオタク好みのビジュアルなことを鑑みれば、「僕愛」ヒロインが噛ませ犬にされていたことは明白だよね。それにしても、この噛ませ犬ヒロイン、自分のことを好きでもない男が本当に好きな娘のためにしている研究に付き合い、やり直した世界でこいつと結婚して子どもまで作り、車椅子生活になった老後のケアまでしているんだから、お人好しもすぎるといった感じだな。
それから、これらに比べればどうでもいいことだが、作中でImaginary Elements PrintというシステムのことをIPと呼んでいるが、これだと、IEPだよね?語感がいいからIPとしているだけでしょ?
あと、エンドロールが日本映画にしては珍しい主題歌+劇伴による複数曲が流れるという形になっていたことにもちょっと驚いた。2作品で使い回している場面が多いから、2作品分のスタッフの名前を出さなくはいけないのでエンドロールが長くなっているということなんだろうね。
ついでに言うと、モノローグが多すぎるのもダメダメだね。
そういえば、「君愛」の脳死の扱いも酷かったな…。
本当、めちゃくちゃすぎる!
なので、「僕愛」を見終わった時点でガックリと来てしまい、この後続けて、「君愛」も見るというのは苦行だなと思ってしまった。
ところが、「君愛」はそこまで酷くないんだよね。というか、ウルッと来てしまうシーンもある。そして、主人公が本当に好きなのは「君愛」の方のヒロインということもあり、彼女も魅力たっぷりに描写されている。アニオタなら大抵好きになるキャラだよね。主人公を健気に愛する美少女幽霊なんて設定が嫌いなオタクなんていないしね。
まぁ、「僕愛」で描かれた主人公が本命ではないはずの女子と関係を深めていくところのダイジェストはいらないと思ったけれどね。
「僕愛」を見た人にとっては、“また見させられるのかよ!”だし、見ていない人にとっては、台詞がカットされているから何のことか分からないしね。もう1作品の場面のインサートに関しては、「僕愛」の方が編集がうまかった。あのくらいの分量で良かったんだよね。
そして思った。主人公の時系列的には、「君愛」→「僕愛」の順番だったのかと。
まぁ、何だかよくわからない「僕愛」を先に見てから「君愛」を見た方が謎がとけた時のカタルシスを感じることはできるとは思うが。でも、終わり方は「僕愛」の方がきれいなんだよね…。話自体は微妙だけれど。
というか、これって、2作品同時公開ではなく、まとめて2時間40分くらいの1本の大長編として公開するか、あるいは、全10話くらいのテレビシリーズもしくは配信シリーズとして発表した方が良かったのではないかと思う。
2作品同時公開だとどうしても片方しか見ない人も出てくるし、そういう人からしたら、“意味不明な映画だ”としかならないしね。
自分も「僕愛」を見終わった時点ではクソ映画だと思ったが、「君愛」も見終えたら、まぁ、ギリギリ及第点かなくらいまでに印象は良くなったからね。どうしても原作に合わせて2作品に分割したいのだったら、入場料金は高くしてもいいから、2本立て公開にすれば良かったんだよね。
それにしても、「ちむどんどん」でダメなヒロインのダメな夫を演じた宮沢氷魚が主人公で、「おかえりモネ」で暗いヒロインの闇オチしたウザい妹を演じた蒔田彩珠がヒロインという朝ドラで演じた役のせいで、本人のイメージも悪くなったような人が揃って声優を務めているのが面白いよね。宮沢については、顔が見えないせいか、「ちむどんどん」の時のようなストレスは感じずに済んだってところかな。蒔田については、決して声優演技はうまくはないが、この役には合っていたかもって感じかな。
《追記》
何か、今年公開の劇場用オリジナルのアニメ映画って、「僕愛」と「君愛」の2部作に限らず、「鹿の王」、「グッバイ、ドン・グリーズ!」、「ブルーサーマル」、「バブル」、「犬王」、「夏へのトンネル、さよならの出口」、「 雨を告げる漂流団地」と駄作ばかりだよね…。
去年は「サイダーのように言葉が湧き上がる」、「岬のマヨイガ」、「神在月のこども」、「アイの歌声を聴かせて」、「フラ・フラダンス」とツッコミどころはあっても良作と呼べる作品が多かったのにね…。