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ブルーを笑えるその日まで

映画マニアを長年やっていると、チラシとかポスター、SNSに上がっている画像などをチラ見しただけで見たくなる映画が時々ある。本作もそんな作品の1本だ。不思議とその直感は当たることが多く、今年の公開作品では「少女は卒業しない」がそうした“出会い”を経て鑑賞し、見て良かったと思った映画だった。大抵、こういう何かを感じる映画って、青春ものかバカ映画なんだけれどね。



そんなわけで先日、本作を鑑賞するために現時点では唯一の上映館であるアップリンク吉祥寺に足を運んだ。ところが、連日、スタッフやキャストによるトークショーを行うことにばかり気が向いているせいか、上映中に音声が途切れるというミスが起きたのにもかかわらず、壇上では誰も謝罪もしなかったし、退場時に入場料を払い戻すとか、次回以降利用できる招待券や割引券を配布するということもなかった。

その後、プロデューサーや監督はSNS上で謝罪したが、アップリンク側からはいまだに何の声明も出されていない。業界の重鎮が文句を言えば対応するが、無名の者のクレームは無視するという姿勢なのだろうか?結局、アップリンクのパワハラ体質、映画人や映画ファンに対する上から目線というのは変わらないということなのだろう。

そして、映画人は自作を上映する場が欲しいから、アップリンクのようなパワハラ・セクハラ体質の“権威”を批判できないということなのだろう。

今泉力哉が先日、Xに“パワハラがあることを知っていながら黙っていた人は悪くない”みたいなことをほざき、批判を受けてその投稿を削除したが(この人は内容の良し悪しにかかわらず、すぐに投稿を削除するクセがあるようだが)、これって、自分は加害者ではないと責任逃れしたいアピールでしかないよね。結局、こういう発言が出てくるのって、アップリンクみたいな連中が映画業界にいまだにうじゃうじゃいて、そういう奴等を批判していたら仕事できないからってことだよね。山下達郎が性加害を行った故・ジャニー喜多川をいまだに擁護しているのも同じ。

でも、世の中のいじめや嫌がらせで被害者を苦しめているのは、いじめの主犯格ではなく、こいつに媚びて同調する連中のせいなんだよね。

サシで勝負すれば主犯格は倒せることが多い。でも、その周りの金魚のフンみたいな連中や、見て見ぬフリをして実際は主犯格に逆らわないようにしている連中が多いから、サシで勝負できず被害者はどんどん追いつめられていくんだよね。

自分は高校生の時、葛飾区議のクソ息子に喧嘩を売られたことがある。自分は頭が来たのでこいつにサシで反撃したが、こいつは1人では何もできなかった。だから、腰巾着みたいな連中を引き連れて、そいつらに自分を攻撃するように仕向けた。それでも、こちらがそれを無視してこいつに反撃したら、今度は担任を言いくるめて、自分を停学にしようと企みやがった。結局、他のクラスの教師がそれはおかしいと担任を説得したので、停学にはならなかったが。

そんな経験もあるので、自分は権威にゴマすって、いじめやパワハラなどに加担したり、見ないフリしたりする連中が大嫌いだ。

本作はいじめ問題を扱った作品なんだから、こうしたパワハラの権化のようなアップリンクで上映するというのは作品のテーマと矛盾していると思う。
というか、監督もいじめ被害の経験者だったのでは?ある程度、名前が知られ、自分はいわゆるスクールカーストの下層、もしくはそのピラミッドにすら入れてもらえない層から脱することができたので、その頃の気持ちは忘れてしまい、逆にスクールカースト上層部に媚びる層になってしまったということなのだろうか?

作品自体は、ファンタジーやホラーっぽい要素をミックスしながら、スクールカーストの下層もしくはそのピラミッドにすら属せなかった者からすれば、全編ウルウルしっ放しの展開の青春映画となっていただけにそういう場外のアレやコレが残念に思えてしまう。



まぁ、かなりツッコミどころや疑問点は多い作品だったけれどね。

謎の人物の正体は鈍感な人でない限りは途中で分かるけれど、大人になったこの人が中学生の主人公と証明写真撮影機で撮った“プリクラ”を保管していたということは、謎の人物が主人公のいる現在にやって来るパターンと、主人公が謎の人物の10代の頃にタイムスリップするパターンの両方があったということか?

それから、主人公は謎の人物と出会うために必要な万華鏡を壊されてしまったのに、クライマックスで再会できたのは何故?謎の人物の方の万華鏡は壊れていないから、そちら主導では行き来ができるということか?

あと、大人になった謎の人物が主人公と一緒にいる10代の自分を見ていると思われるシーンがあるが、同時に2人が同じ時間軸に存在できるのか?それとも、この時、大人バージョンの謎の人物には主人公しか見えていなかったのか?

そして、この大人バージョンは図書館司書をしているが、いくらなんでも、図書館所蔵の全ての書籍を読んでいるという設定は無理ではと思った。ついでに言うと、本好きなのに、“本で見た”なんていう言い方をするんだと思ってしまった。

そうそう!主人公が最後、クラスで飼育していた金魚を川に放流するけれど、あれは金魚にとっては良くないことだと思う。

さらにもう一つ。明らかに7月下旬になっても普通に授業をしていたし、始業式の日である9月1日にも普通に授業をしていたが、本作の舞台がどこと設定されているのかは分からないけれど、ここの地域の夏休み期間ってどうなってんだと思った?まぁ、脚本も手掛けた監督は不登校だったし、友達もいなかったようだから、中学校生活の描写にリアリティを求めるのは酷なのかな?

まぁ、全体としてはかなりの良作だとは思う。特にメインキャラ2人を演じた若手女優2人は魅力的だし、今後にも期待したくなるしね。

ところで、作中、“青空が嫌だ”といったニュアンスのことを登場人物たちが口にしていたが、これでふと思ったことがある。

それは、憂鬱な状態のことを何故、ブルーと呼ぶのかということだ。

ブルーというのはおそらく、あらゆる色の中で最も爽やかな色だし、すっきりと晴れた青空を見れば誰もが爽快な気分になるはずだ。

もしかすると、メンタルをやられてしまった人は、青空=ほとんどの人が爽やかと思う=マジョリティの意見=自分を疎外するあちら側のものと思ってしまうからなのだろうか?

《追記》
アップリンク吉祥寺って上映開始時間が本編開始時間になっているらしい。しかも、5スクリーンで18番組(12月23日時点)を上映するというめちゃくちゃなスケジュールになっているので、1日1回のみの上映作品も多い(本作もそう)。そのため、入場開始時間はギリギリで、休憩・幕間の時間も短い。だから、少しでも回転率を上げるために休憩・幕間の時間に予告編を流しているのだろうが、そういうシステムだという告知が常連以外には認知されていないから、上映開始後に入場する人が多くて気が散って仕方ない。こういうミニシアターで上映するような作品で観客を集中させられない環境というのはダメでしょって思う。
アップリンクって、パワハラ・セクハラで批判されたことを何も反省しておらず、相変わらず観客や映画監督などに対して上から目線ってことでしょ?そして、ここの常連みたいな観客もその考えに感化されているから、たまにしか来ない他の観客に対して上から目線になっている。邦画界隈特にミニシアター系邦画界隈って本当、閉鎖的だよね。





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