虎に翼
実話を基にした作品だろうとフィクションだろうと、歴史ものの映画やドラマ、演劇の中で現在の問題を織り込んで描くこと自体は何の問題もない。というか、織り込まないのであれば単なるドキュメンタリー(再現ドラマ)だから、わざわざ映画やドラマ、演劇にする意味がない。
でも、この「虎に翼」は度が過ぎたと言わざるを得ないと思う。
ハリウッド資本の歴史ものの映画やドラマで近年、当時はほとんどありえなかったはずの黒人エリート(ゼロとは言わない)が普通に王族の側近とか軍の指揮官として活躍している描写が増えている。これと同じようなやり過ぎ感が「虎に翼」にはあった。
日本国憲法が制定されて80年近く経つのに、日本社会における不平等は解消されていない。戦後生まれなのに戦前の価値観を重視している≒憲法を否定している日本人も多い。だから、日本は世界に取り残されて後進国化が悪化している。
そういう問題提起をすること自体はいいのだが、マスコミやリベラル、左翼、パヨク、フェミなどが問題視するイシュー、例えば、軍事化、環境破壊、女性の活躍・子育て、人種差別、LGBTQ、性加害、裏金で動く政治家や役人、等々、あらゆる問題を次から次へと提示し、たいして時間もかけずにすぐに次のテーマへ行くというのを繰り返していた。
だから、右寄りの思想の者やノンポリを自認する者からすると左翼臭の強い作品に思われてしまっていた。
女性の活躍に焦点を絞り、それに付随する形で多少、性加害問題やLGBTQに触れる程度で良かったのではないかと思う。
さらに、蓮舫や福島瑞穂などネトウヨが嫌う左派の女性政治家や小泉今日子などの政権批判スタンスの芸能人、いわゆるパヨクと呼ばれる人たちがこのドラマを絶賛するのもマイナスイメージとなった。というか、彼女たち、彼らがこのドラマの良さを分からないのはあんたが老害だからだ、ネトウヨだからだみたいな論調で語るのが良くなかった。
そして、思想の左右に関係なくこのドラマが一番ダメだと思ったのは俳優のビジュアルがなっていなかったことだ。
朝ドラは20〜30代の若手俳優に少年少女期から高齢期まで演じさせることが多い。
だから、制服を着た高校生の演技だとAVや風俗のコスプレに見えてしまうし、白髪のかつらをかぶった高齢者の演技だとコントに見えてしまう。
それでも、そのオーバーな見た目のおかげで演技力が確立されていない若手俳優でも今演じているのが登場人物のどの年齢かは一発で理解することができた。
しかし、本作は白髪のカツラも抑え気味だし、服装もいかにも中高年なものにしていない。それどころか老けメイクもほとんどしていないから、20〜30代のきれいな肌が露出したままとなっている。
そこへ来て、回想シーンや妄想シーン、他界したキャラが幽霊として登場するシーンもあるから、今流れている場面がいつの時代の話か分からなくなってしまう。
というか、全員が老けメイク、老け演技をしないで舞台のように見ている者が脳内補正してくれというのならそれでもいいのだが、完全にそうなっていないから余計、混乱してしまう。
主人公(ヒロイン)の娘は10代と20代以降で別の俳優に変えていたが、どちらの女優も実力はあるのだから通しでてきたのではないかと思う。
また、主人公の学生時代からの仲間を演じた平岩紙は極端な老けメイクはしていないものの、演技力で老いを見せてくれていた。
いつも明朗な物言いで、納得行かないと“はて?”を言い続けていた主演の伊藤沙莉がナレーションやテロップがないと、いつの時代の演技か分からないのとは対象的だった。
ナレーションと言えば、ナレーターの尾野真千子が比較的、伊藤沙莉に近い声質だから、ナレーションが伊藤沙莉のモノローグに思えてしまうのもどうかと思った。
主人公もしくは主人公の娘の中高年になったバージョンが尾野真千子だと予想していた人も多いのでは?
それから、のちに最高裁長官になる人物を演じた松山ケンイチはコントレベルでないきちんとした老けメイクをし、彼もきちんとした老け演技をしていた。どうしても他の演者と比べてしまい、マツケンはプロフェッショナル、他のほとんどの演者は素人とまでは言わないが商業的理由で見た目を変えられないアイドルと言いたくなってしまう。
ところで、米津玄師の主題歌“さよーならまたいつか!”を伊藤沙莉が口パクするラストシーンは何?こういうメタな遊びを面白いと思っているのだろうか?
というか、歌詞の内容からすると、同じ米津曲でも映画「ラストマイル」の主題歌となっている“がらくた”の方が歌詞が内容にあっていたのでは?
まぁ、朝ドラっぽい曲調ではないが…。