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クルエラ

ディズニーの最新実写映画が東京23区内で1館でのみの公開。しかも、ミニシアターというのは異常事態でしかない。
しかも、上映劇場はシネマカリテという本当に狭い劇場だ。
昔、渋谷東急文化会館の地下が小規模上映作品とミニシアター系の中間みたいな位置付けだった時に「マペットのクリスマス・キャロル」を見たことがあるが、それだって、300席以上はあるスクリーンだったから、キャパが100席に達しない(しかも、緊急事態宣言下のため半分の座席しか販売しない)シネマカリテでの上映というのは異常事態だ。

3月公開のディズニー・アニメーション「ラーヤと龍の王国」は、劇場公開と同時に配信するというディズニーの方針に興行団体の全興連が反発し、東宝・東映・松竹の邦画大手3社やそれに近い立場のシネコンが相次いで上映を“ボイコット”した。

それでも、イオンシネマやユナイテッド・シネマ、シネマサンシャインといった非邦画大手系のシネコンや、ヒューマックスなどの独立系の映画館、ミニシアター系の劇場では上映された。

しかし、今回は系列に関係なくシネコンは都の休業要請の対象になっているし、独立系の映画館やミニシアターでも、入居するビルが休業となれば一緒に休業せざるを得ない劇場もある。

その結果がこれだ。

ライブや演劇がOKで映画館はNGという都の方針はデタラメもいいところだが(どちらかをNGにするなら、普通は生の演者がいるライブや演劇のはずだし、本気で感染対策するなら、両方NGにすべきだと思う)、自ら上映作品を排除している全興連には被害者のフリをする資格はないと思う。

そして、実際にディズニー大作としては異例の23区内単館ロードショーとなった本作を見た感想としては、これって、ディズニーランドやディズニーシーに毎月のように行きたがる人が見たがる映画じゃないね。コロナ前の次から次へとヒット作を飛ばしていた時代のディズニー映画を支持していた観客層向けの作品ではないね、コレ!

ここ最近のディズニーのポリコレ路線には辟易する部分も多いけれど、これはその路線をさらに極めつつも、「ハーレイ・クインの華麗なる覚醒」みたいなアンチ・ヒーロー路線もプラスしたって感じだから、日本のカップル向きの作品ではないと思う。だから、結果としては単館公開というのは正解だったのでは。

そんなポリコレ路線、女性活躍機運を進めているディズニーなのに、日本の公式ホームページになると差別主義全開なのはおかしいでしょ!
何故、オリジナルのキャストは呼び捨てなのに、日本語吹替版の声優を務めた日本人の俳優は“さん付け”なんだよ!
どちらも自社作品の出演者、つまり、一般企業でいえば、自社の社員とか製品なわけだから、両方呼び捨てにするのが正しいのでは?
少なくとも、日本人にだけ、“さん付け”するのは明らかな人種差別だぞ!
まぁ、日本の洋画配給会社・宣伝会社のほぼ100%がこの人種差別を行っているし、BLMに同調するような記事を書いているマスコミでも、かなりの確率でこうした人種差別を行っているけれどね。
朝日新聞や東京新聞には、人種差別を語る資格はないぞ!

それにしても、エマ・ストーンとエマ・トンプソンのWエマ共演というのは面白かった。
どちらも悪役だけれど、エマ・ストーン演じるクルエラから見れば、エマ・トンプソン演じるバロネスは敵役だし、バロネスから見てもクルエラは敵役ってのは面白いと思った。

あと、最近、悪役に親近感を抱かせるような作品って多いよね。
ディズニーでいえば、「眠れる森の美女」の悪役を主人公にした実写作品「マレフィセント」シリーズもそうだし、先述した「ハーレイ・クインの華麗なる覚醒」もそう。
「ハーレイ」同様、DCコミックス原作の「ジョーカー」なんかはその極みだしね。そういえば、「ジョーカー」にもこの「クルエラ」にも名曲“スマイル”が使われているな…。

でも、本作におけるクルエラのキャラは、「101匹わんちゃん」でのクルエラと矛盾している気もするな…。

それから、この「クルエラ」は音楽の使い方が見事!音楽、特に洋楽好きならそれだけで楽しめると思う。
作品の舞台となった1960年代のザ・ローリング・ストーンズ“シーズ・ア・レインボー”、ナンシー・シナトラ“にくい貴方”、ゾンビーズ“ふたりのシーズン”といった楽曲のみならず、70年代末のブロンデイ“どうせ恋だから”や80年代初頭のザ・クラッシュ“ステイ・オア・ゴー”なんかも使われていて、音楽ファンはそれだけで楽しめた。

そして、何よりも最高だったのが、ラスト・シーンに流れるストーンズ(また登場!)の“悪魔を憐れむ歌”の使われ方!
邦題だとピンと来ないかもしれないが、原題を知っている人ならぐっと来る使われ方だと思う。

原題は“Sympathy For The Devil”だが、デビルというのは、クルエラのフルネーム“クルエラ・ド・ビル”の“ド・ビル”の部分のスペルが“De Vil”となっていることに引っかけたものだし、シンパシーはストーンズの楽曲の邦題では“憐れむ”と訳されているけれど、この単語には“共感”という意味もある。

つまり、悪役だけれど彼女が悪役になってしまったのは、髪の毛の色のせいでいじめられたり、母親を“不慮の事故”で失ったりといった悲惨な環境のせいでもあり、同情の余地があるという作品の内容にも合致しているんだよね。本当、見事な曲の使い方だと思う。

ところで、クルエラの地毛が右半分と左半分で色が違うってのは、シーアに見えるよね。

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