I/Oプラザその③
それは懇意にしていたS企画の社長が「それだったら俺の下でやってみるか」との話だった。
具体的には有限会社テラ・グランを株式会社S企画に吸収合併して、S企画の一部門として再構成するというものだった。社員もそのまま移行するし、話的にはもってこいだった。
実際S企画はこの頃レンタルビデオ業が絶好調で、なんとか黒字を圧縮するため赤字のアイオープラザを合併させるというプランだったが、こちらにとってはまたとない話だった。
実際、現店舗を全て閉鎖して、白石区に新しく店舗を開くことになるのだが、今までの店舗よりはるかに広いため、関係者以外は現店舗を集約させて広い店舗に移ったくらいにしか思わなかっただろう。
こうしてアイオープラザの看板は残ったが、運営会社は株式会社S企画に移り、PC事業部として活動していく事になったのだ。それは平成10年(1998)のことだった。
創業から7年あっという間だった。
ただし、ゲーム制作をしていた別会社の有限会社グランブルーは2001年まで存在していた。
その後、それなりに売上を伸ばしていったのだが平成15年(2003)に「アーカムプロダクツ株式会社」と製作業務提携し、販売権利も受託することになる。
原画と彩色の仕事を請け負うようになったのだ、もうパソコンやソフトの販売では収益を上げられない状況になっていた。
大手電機販売店が大量に安く仕入れたパソコンを販売していく。とうていその値段には追いつけない。自作PCもそんなに台数が売れるわけではない。
そしていわゆるメンテナンスやネット設定の仕事を模索していくことになっていった。
ちょうどその頃にはインターネットが爆発的に普及して来たのだが、その設定をできる人が限られていた、なにせまだパソコンにLANの端子もついていない時代の話である。初めの頃はパソコンのTEL端子に繋いで、いわゆるISDNとかADSLで繋いでいたのだ、今となってはわからない人も沢山いるのではないだろうか?それでプロバイダとかネット回線の会社から業務を受け初めていたのである。
しかしこの頃からS企画の本業である、レンタルビデオ業が下火になっていく、インターネットが普及したのと、TSUTAYAなどの大手がどんどんと出店してきたのだ。
そのため飲食事業部を強化し、次々と店舗を展開するが後にそれが裏目に出るのだ。
PC事業部のほうはゲームの原画やメンテナンス、ネット設定等それなりに収益を上げていたのだが、この頃店長(元創業者)による架空売上などの背任行為が税務調査によって発覚し、これに激怒したS企画の幹部社員達を収めるため、店舗を東区に移し大幅に縮小した。
同時に社員も辞めていき、往年の面影もなかった。
S企画はレンタルビデオ店を次々と閉店し、飲食事業を展開していった。
しかしそこで郊外型飲食店での、飲酒運転が問題となり始める。
それまではなんとなく見過ごされていたのだが、ある事件がきっかけとなり、飲酒運転の厳罰化が社会問題となるのだ。
多くの郊外型飲食店を手がけていた、S企画は顧客が一気に大幅減少するという負のスパイラルに見舞われる。
なんとか郊外型店舗を市内店舗のみに集約するなど、色々試みたが一気に売上げが下がったため、経営体質の改善と経営陣の刷新を銀行から求められたのだ。