『小山田圭吾 炎上の「嘘」』を読み解く:真実と誤解のはざまで
ノンフィクション作家、中原一歩による話題の著書『小山田圭吾 炎上の「嘘」』を一気に読了。
いや、すごい本だった。
俯瞰した視点と両論併記
小山田圭吾さん本人へのインタビューはもちろん、所属事務所の社長やスタッフ、小山田さんのパートナーや友人、和光時代の友人への綿密な取材に基づく裏取を、徹底的に行った上での考察。
小山田さんが、あのとき炎上することになったその「発端」といえるツイートが、一体どのような「思想背景」を持った人物によるものだったのか。その「発端ツイート」がどのように拡散され、どのような人たちが炎上に「加担」していったのかを時系列に沿って説明。
その背景にあった『ROCKIN’ON JAPAN』と『Quick Japan』による小山田さんへのインタビュー記事はもちろん、それを抜粋しネット上で紹介した『孤立無縁のブログ』や、匿名掲示板により、今回の大炎上に至るまでたびたび起きていた「燻り」も細かく追っていく。
実は炎上後、小山田さんの事務所と『ロッキングオン』の山崎洋一郎氏が、秘密裏に会っていた新事実なども明かす。
中原さんという人は、小山田圭吾の音楽活動にさして興味はなく、「全裸でぐるぐる巻きにしてウンコ食わせてバックドロップして……ごめんなさい(笑)」という、『ROCKIN’ON JAPAN』の当時のセンセーショナルな見出しを読み、「いったいこの小山田というやつはどんな極悪人なんだ?」と感じた憤りと、その後、彼の近しい人たちから聞く「小山田圭吾という人物の人となり」のあまりのギャップに戸惑い、「真相を突き止めずにはいられない」というある種の「衝動」に突き動かされてこの本を書き上げたという。
本著は彼のような、音楽業界とは何のしがらみもない人の「俯瞰した視点」があったからこそ、書き上げることのできたドキュメンタリーだと思うし、自身のスタンスは明確にしつつも読者の判断に任せる「余白」を担保するため、可能な限り両論併記を心がけているところなど、同じ文章を生業にする人間としては、読みながら終始襟を正す思いだった。
一体この、小山田圭吾へのとてつもないバッシングはなんだったのか。そのことについて僕なりの気持ちを書く前に、まずは小山田圭吾に対する個人的な思いを述べておきたい。
フリッパーズ・ギターとの出会い〜小山田圭吾からの影響
1969年生まれの僕は、小山田くん(ここからは「小山田くん」にさせてください。そのほうがしっくりくるので)と同い年の学年違い。学年は彼の方が一個上だけど、小学生でYMOの洗礼を受け、中学でビートルズにハマり高校からバンドに明け暮れ、大学に入って学業そっちのけでバンド活動に夢中になっていた僕にとって、フリッパーズ・ギターとの出会いはあまりにも衝撃的だった。
彼らの存在を僕に教えてくれたのは、僕と同じ大学に通っていた山下洋(のちにコーネリアスのサポートギタリストとして活躍)だった。
「『ブルースを聞かなきゃロックは理解できない』なんて言ってる年寄り連中には絶対に理解できない音楽だよ」という、半ば挑発的な感情を込めて、彼が教えてくれたフリッパーズの1stアルバム『three cheers for our side 〜海へ行くつもりじゃなかった〜』(1989年)に魅了された僕は、そこに散りばめられていた引用元、つまりOrange JuiceやThe Pastels、Aztec Camera、Boy Hairdressers、The Monochrome set……等々、主に1980年代のUKインディーを浴びるほど聴き漁った。
2ndアルバム『CAMERA TALK』(1990年)ではその引用元が映画音楽やA&Mポップスなどさらに広がり、続く3rdアルバムにしてラスト作『DOCTOR HEAD’S WORLD TOWER -ヘッド博士の世界塔』(1991年)では、その膨大なサンプリングに度肝を抜かれ、楽曲、アレンジ、サウンド、そして小沢健二によるパンクで哲学的な歌詞の世界にますます惹かれていく。
2人の絶妙なバランス感覚こそがフリッパーズの肝だったけど、とりわけ小山田くんのファッションセンスや聴いている音楽、アートワークを含むヴィジュアルへのこだわりなど、全てがツボ過ぎて死ぬほど影響を受けまくった。
オザケンに続き、彼が新たにスタートしたソロプロジェクトCorneliusももちろん最高。リリースのたびに掲載されていた彼のインタビューは、片っ端から読んでいた。そんな中で飛び込んできたのが、例の『ROCKIN’ON JAPAN』の記事だった。
当時『ROCKIN’ON JAPAN』の2万字インタビューは名物企画で、登場するアーティストは毎回、自分の壮絶な過去を赤裸々に語っていた。小山田くんの2万字インタビューは、確かCorneliusの1stアルバム『THE FIRST QUESTION AWARD』(1994年)をリリースに合わせたもの。同年リリースされた『LIFE』(1994年)で王子キャラを全開にし、メインストリームのポップシーンで活躍するかつての相棒への対抗意識が、この頃の小山田くんには多少なりともあったように思う。
例えばオザケンが『ROCKIN’ON JAPAN』のインタビューで、「小山田って元々メタラーでさ」みたいなことを「揶揄」のつもりで明かすと、それを否定するでも弁明するでもなく、「だからなに?」と言わんばかりにヘヴィメタルへと接近した2ndアルバム『69/96』(1995年)を発表する。
そもそもデビュー曲「THE SUN IS MY ENEMY 太陽は僕の敵」の「太陽」とは、紛れもなくオザケンのこと。『犬は吠えるがキャラバンは進む』(1993年)でポジティブな路線へと舵を切った彼に対し、少しでも露悪的な態度を取ろうとした結果、インタビュー中にあのような浅はかな「いじめ話」をしてしまったのではないか? と僕は思っている。
SNSの時代と再炎上〜今なお続く「ネットリンチ」
当時はSNSも当然なく、雑誌で過激に色付けされた記事も時が経てば埋もれていくだろうと誰もが考えていたのかもしれない。
正直、『69/96』の頃の露悪的な小山田くんはあんまり好きじゃなくて(続く『FANTASMA』(1997年)で『DOCTOR HEAD’S WORLD TOWER -ヘッド博士の世界塔』をさらに推し進めたエクスペリメンタルなコラージュポップへ回帰、さらに『POINT』(2002年)で唯一無二の境地まで辿り着いたことで、僕の中で彼への評価は決定的なものとなった)、あの記事も自分の記憶からはいつしか消え去っていた。
だから、時を経て再びネットを騒がしているという噂が小耳に入った時も、正直「何を今さら」という感じで完全にスルーしていた。まさかこんなタイミングで、これほどまでの炎上になるとは想像もしていなかったのだ。
もちろん、「あの件(いじめの記事)は常に自分の喉に刺さった小骨のような存在だった」と語る小山田くんが、もっと早めに見解を出していたら、状況は少し変わったのかもしれない。でもそれも今となっては結果論だ。
当時ソロ活動を始めたばかりの小山田くんが、これまでの「可愛いキャラ」から脱しようとしていたこと。ひと足さきにデビューを果たしたオザケンへの対抗意識。『ROCKIN’ON JAPAN』に対する露悪的なサービス精神。アーティストの人生をセンセーショナルに紹介していた当時のカルチャーメディア、そして2000年代に入ってからのインターネットの爆発的な普及と、それによる過去記事のアーカイブ化。東京オリンピックをめぐる分断と対立。今回の大炎上は、そういったものが複合に絡み合って起きたことなのだ。
こうやって書いているまさに今、SNSを使った裏垢での誹謗中傷を発端に、その加害者への執拗なバッシングが巻き起こっている。
裏垢を使った加害者の、相手の尊厳をも傷つけるようなその発言とやり口は言語道断で、それに対して擁護する言葉を僕は持たない。
ただ、「こいつはいくら叩いてもいいんだ」と免罪符を手に制裁を加える人たちを見ると、小山田くんの一件から何一つ学ぶことができなかったのだろうかと暗澹たる気持ちになってしまう。
ともあれ『小山田圭吾 炎上の「嘘」』は、小山田くんに対する誹謗中傷の本質を探ると同時に、メディアリテラシーの重要性を再認識させてくれる良著だ。多くの人に読んでほしい一冊である。
以下、僕が小山田くんをインタビューした記事です。参考までに。
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