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ヨルゴス・ランティモスの新作『憐れみの3章』を観た。

たまには映画のことも書こうと思う。

どんべえが亡くなってから、なんとなく映画館へは足が遠のいてしまっていた。8月に『ルックバック』を観たくらいで(あれはいい映画だった)、何か一つのものに対し、長時間集中する自信がなくなっていたのかもしれない。でも、引越しをして環境が変わったのが良かったのか、このところ時間を見つけては映画館に足を運んでいる。

ざっと挙げると、『浅田真央アイスショー 「Everlasting33」』『ナミビアの砂漠』『めくらやなぎと眠る女』『ぼくが生きてる、ふたつの世界』『エイリアン ロムルス』。

『ロムルス』はエイリアン・シリーズ史上もっともしょーもなかったけど、他はどれも良かった。特に『ぼくが生きてる、ふたつの世界』は序盤から嗚咽しそうになったし、聴覚障害者向けの字幕版を観たのも貴重な体験だった。

そんななか、先日レイトショーで観た『憐れみの3章』の余韻が半端ないので、ここに感想を記しておこうと思う。

本作は、全く異なる3つのストーリーを同じキャストが演じていて、突拍子もないようでどこか通底するテーマもあるヨルゴス・ランティモスらしさ炸裂の映画。難解な映画では全くないのだが、上記した「ルール」やある程度のあらすじをあらかじめ押さえてから臨まないと、最初はちょっと混乱するかもしれない。公式サイトなどをざっと読んでおくのがおすすめです。

搾取する側とされる側、支配する側とされる側、依存する側とされる側、それは必ずしも一方通行なだけではなく、どちらが加害者なのか傍目には分からないこともある。

もっと言えば、搾取されたり支配されたり依存したりすることそのものへ、自ら耽溺していく時でさえ。先日読んで衝撃を受けたノンフィクション『消された一家―北九州・連続監禁殺人事件―』のことも頭をよぎる。

この本で取り上げられた事件は、主犯の男が複数の被害者を支配下に置き、自らは手を下さず家族同士で殺し合いをさせるという信じがたいものだった。

閑話休題。

〈あなたを利用したい人がいる あなたに利用されたい人がいる〉〈あなたを苦しめたい人がいる あなたに苦しめられたい人がいる〉〈甘い夢はこうできている 私にはとても抗えない〉


映画の主題歌として起用され、劇中しばしば流れるたユーリズミックス「Sweet Dreams」の歌詞が、作品のテーマを象徴していたのだった。

昨今、人間関係においてよく使われる「沼る/沼らせる」行為には、そういう危うさを多分に含んでいると前から思っていた。「彼を沼らせるマニュアル」みたいなコンテンツがSNSを通じて盛んに紹介されているけど、それは相手を支配し心を奪う行為であり、ある種のマインドコンロールではないのか。

沼らせたくなる人の気持ち、沼らせないと相手を繋ぎ止められない人の焦燥感や欠落感を理解できないわけではないけど、それは決して健全な関係とはいえないだろう。

個人的には第2章「R.M.F.は飛ぶ」が特に印象に残った。人はいったん誰かを疑いだすと、全てが疑惑の「決定的な証拠」に見えてくる。信頼されない側は、自己否定とアイデンティティの喪失により、相手のどんな理不尽な要求にも応えようとしてしまう。それを究極の形で描いているのがこの第2章で、疑う側と疑われる側のどちらが狂っているのか次第に分からなくなっていくのが心底恐ろしかった。

あと第3章「R.M.F. サンドイッチを食べる」で見せる、エマ・ストーンのダンスね。さいっこう。

ヨルゴス・ランティモス、いい監督だな。『哀れなるものたち』といい、かたときも目を離せなくなる作品を作る人だ。

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