マヌ50周年を迎えて Ⅱ.再開発篇 人・街・建築 〜草の根をさまよう〜 その4
商業診断業務にて携わった、千葉県中小企業相談所の指導員、多田三郎氏とのエピソード。
「物語性も地域づくりの資源だ」という持論を持ち、地域診断の心得、各地域の商業活動に加え、その文化的背景まで語る多田氏。彼と関わる中で高野が感じ取った、地域づくりに関わる専門家に求められる資質とは?
(本稿は、2014年のマヌ都市建築研究所50周年にあたり故・髙野公男が書き溜めていた原稿をまとめたものです。)
(3)多田三郎さん
千葉県中小企業相談所の指導員、多田三郎さんは異色な行政職員であった。薄茶色の眼鏡をかけ、ハンチングをかぶったダンディな遊び人風の風貌はとても行政職員とは思えない印象であった。大変博識な方で商業リテラシーはもちろん、県内各地域の地誌にも詳しくかつグローバルな見方の出来る専門家だった。
マヌのわれわれとウマ(波長)が合ったのだろうか県の商業診断業務に誘ってくれた。これにより房総半島を含む千葉県ほぼ全域の地域調査に関わることになる。いつも公用車で地域を回るのであるがその車中レクチャーが面白かった。「診断には地域観を深めることが大切だ。住む人々の語りによって地域の本質を捉えることが出来る」などの地域診断の心得から、それぞれの地域の商業活動の背景にある文化的背景、…政治風土や精神風土、住民気質まで丁寧に解説してくれた。
利根川の右岸、旭市の診断の時は侠客、笹川繁蔵、飯塚助五郎の墓所まで案内され『天保水滸伝』の背景にあった往時の為政者と農民の関係、侠客が輩出される政治風土を語ってくれた。
利根川流域を含む関八州(関東)では幕府の統治能力が弱体化した江戸末期において治安が悪化し、勢力を持つ博徒が代官所に替わる警察力となり地域の治安を守った。その勢力抗争の史実がドラマティックな「利根の川風袂に入れて⋯」の『天保水滸伝』となって伝えられているのである。
物語性も地域づくりの資源だというのも多田さんの持論であった。
佐原での物語は山村新治郎であった。日航機よど号ハイジャック事件(昭和45年3月)が起きて間もない頃だったので乗客の身代わりになった山村新次郎議員(佐原出身)にまつわるエピソードを聞かされた。
山村新治郎議員は江戸時代から米穀商を営む佐原商人の名家を継ぐ人で国会議員として政界でも活躍していた。運輸政務次官を務めていた山村議員が敢えて乗客の身代わりになったのは侠客の精神文化が残っていた地域性のなせる技ではないかと多田さんは分析する。また余談となるが、よど号事件では大学時代の親友・小黒貞夫君(大林組)が人質乗客となっていたので私にとっても身近でスリリングな事件であった。マスコミで報道された「山村新治郎男でござる」という言葉がまだ耳に残っている。
食文化と地域づくりと言う講釈もよく聞かされた。地元の商工会議所が接待してくれる食事処はたいてい鰻屋だった。「先生たちは長いものが好きだろう」と言われて鰻屋の2階に連れて行かれた。そこでもまた多田節の地域振興食文化論が始まる。
地域振興の出発点として「まず土地で採れたうまいものを食す」というのが多田流の食文化論であった。当時の地元の会合、接客会場には松竹梅のランクがあり、松は高級割烹、竹は鰻屋(あるいは川魚屋)の2階、梅はそば屋の2階というのが通常で、われわれ調査グループが受ける接待はいつも竹クラスの鰻屋だった。特に佐原の地場産の鰻はおいしかった。まだ「地産地消」のかけ声もなく、まさに地産地消のそのものの時代であったのである。
多田さんに教えられたことは少なくないが、その一つは「商人魂」(あきんどだましい)と「福祉商業」という言葉である。多田さんによれば商人(あきんど)というのは商売人やデモシカ商人のことを言うのではない。商人とは近江商人や老舗商店のように商いという生業を矜持とする社会性ある商人の心の有り様、すなわち商人魂を持った商人ことである。「最近は商人魂を持った商人が少なくなった」とよくつぶやいていた。
「福祉商業」というのは後継者がおらず高齢化で時代にも追いつけず、それでも生きがいで商売を細々と続けているパパママなどの個人商店のことを言うのである。佐原の商店街診断の際に老朽化した衣料品店の店頭で「おじいさんとおばあさんの店」という手書きの吊し看板を見たときに教えてくれた言葉である。
「商業政策ではこうしたお店を助けてあげられないんだよね。それでも生活が成り立つのは地縁関係で相互扶助的な商業機能があるからなのだ。こうした生きがい商店は「安楽死」を待つよりほかに道はないね」と多田さんはつぶやく。商店街の近代化を推進する一方で落ちこぼれていく零細店舗に対する眼差しに共感を持った。
現代に立ち返って地方都市の中心市街地の現状を見ると、既往の店舗が福祉商業化し、更に消滅していく現象が顕著である。郊外化により都心に人が住まなくなり、それまで支えてきた地縁的商業機能が成り立たなくなったことがその一因としてある。孤立化した「生きがい商店」が安楽死も遂げられない社会状況が続いている。
多田さんと県内の商店街振興の数多くのプロジェクトに付き合った。その集大成として「暮らしの広場に活力を」と題した『商店街近代化マニュアル』(千葉県商工労働部 昭和61年)などをまとめることになる。
残念なことにその後多田さんの訃報を受けることになるが数年前に多田さんのお嬢さん(古城理恵子さん)がうちに訪ねて見えて「父は死ぬまで<商い>に関して知的好奇心の旺盛な人でした」と語ってくれた。地域づくりに関わる専門家に求められる資質とは、人間社会を捉える冷徹な目と人々の生き方や暮らし方に対する暖かい心、そして専門家自身の遊び心であろう。
多田さんは単なる観察者や評論家ではなく、地域との対話を通してしなやかなビジョンを描ける専門家であった。多田さんは行政職の型にはまらない行政内自由人であった。真のまちづくりは必ずしも制度やイデオロギーの番人ではなく、遊び心と創造的な現場力を持った自由人によって達成できるのではないか。多田さんはそう思わせてくれるプロフェッショナルであった。
(つづく)