マヌ50周年を迎えて その1
故・髙野公男は1964年4月に一級建築士事務所マヌ設計連合(現マヌ都市建築研究所)を設立し、1992年東北芸術工科大学教授に就任、2015年に他界するまで日本の建築・まちづくりの実務・研究・教育に尽力しました。
本稿は、2014年のマヌ都市建築研究所50周年にあたり故・高野公男が書き溜めていた原稿をまとめたものです。
1.はしがき
1964年4月東京オリンピックの年に建築事務所を開設して50年になる。現在、スタッフ十数人の小さな組織の事務所だが、よくもまあここまで潰れないでやってこれたというのが正直な実感である。
テンポが速く、浮き沈みの激しい現代社会の中で何とか活動を維持し、展開できた理由の一つは、何よりも志を共にする素敵な仲間やスタッフ、そして真摯に環境づくりに取り組むクライアントに恵まれたことといって過言ではないだろう。
マヌが歩んだ軌跡は多面的で散逸してしまった資料も少なくなく、その全てを語ることは出来ないが、おぼろげな記憶を頼りにして、自分史としてマヌと共に歩んだ来し方を回顧して見ることにした。
2.マヌの創設
設計共同体、一級建築士事務所マヌ設計連合として看板を上げたのは1964年4月だった。当時、東京大学大学院博士課程に在籍していたが、知人の紹介で設計を頼まれることも多く、個人のアルバイトとしてこなしていたが、仕事の量が増えたので、この際思い切って建築事務所登録を行い、オフィスを借り、体裁を作って世の中に打って出ようと思ったのである。
経営的な見通しや将来への展望があったわけではない。そこに仕事があり、自分で請け負って設計の仕事をするのが楽しかったからだ。
共同経営の相棒は水野可健君(九大卒・当時生研研究員・故人)。事務所は東大龍岡門、春日通り沿いの竜岡ビル4階。5坪、事務机とソファー、製図板3枚程度が収まる程度の広さだった。スタッフは渡邉薫夫君(工学院大卒)、ライトの建築が好きで自分で製作した落水荘の図面をパネル化し、事務所の壁に貼っていた。
(1)マヌ前史
そもそもの始まりは京都国際会議場の設計コンペに応募するための作業場となるアパート探しからだった。
当時、東京大学大学院修士課程から博士課程に進み、建築技術の研究をする傍ら、各研究室が行う研究・設計活動にも参加していた。
私の所属していたのは東大生産技術研究所第5部星野昌一教授の研究室で、星野先生は当時、色彩学や建築材料の防火技術の研究をされ、その傍ら公共建築や民間企業の建築設計もされていた。
色彩学に関しては、戦時中、海軍の要請で迷彩の研究をなされていたようで、研究室の片隅には三脚のついた高精度の双眼鏡が置かれてあった。海上や航空機から見る都市や地上の建築物の視覚特性を研究されていたのであろう。私は小学2年生の頃、新潟の疎開先の農家の土蔵の白壁が墨(すす)で真っ黒に塗り替えられる現場を目撃したが、これは建築物の明度や彩度、反射率など、ことに空爆の対象として視認性を抑えて目立たないようにする国の施策であった。戦後まもなくしてもとの白壁に戻ったが、終戦間際の全国の町並みは、黒やグレーなどの戦時色一辺倒となり、品位や華やかさが失われた時期だった。
この防空都市政策がどれほどの効果があったかは知るところではない。ただ、この軍事研究は後の環境色彩計画の基礎をつくったことは確かである。戦後、復興期にカラーコンディションや色彩デザインの研究が盛んになるが、軍事研究が民生研究の礎となったのである。
ちなみにJR湘南電車のオレンジとグリーンの補色配色の車両デザインは星野先生の指導のものと伺っている。まだ現在、その車両デザインが使われているところを見ると、色彩デザインに普遍性があったのだろう。また、東京都交通局の電車やバスもカラーコンディションの理論によってデザインされた、ベージュと濃い臙脂の帯の入ったツートンカラーというやつで視認性がよいという理由で採用されたようである。確かに、停留所で待ち合わせしていると遠くからでもそれを視認できる。
それはそれでよいのだが、しかし、近くによるとそのデザインはどこか野暮ったく、心をときめかすものではなかった。公共交通機関のデザインとして物足りなさを感じていた。色彩に対する人間の一般的感情や視認性という物理的機能を色彩理論を応用したと言われるが、分析科学の単純な応用というものの有用性と限界性というものがあることを実感した。
理論的な分析も必要だが、環境デザインは総合的であり、経験則やデザイナーの感性、社会的洞察力というものが大切なのではないかということを印象づけられた。最近の車両デザインは、路線に応じてそれぞれ律動感があり、利用する人々にある種のときめき感を与えているように思える。
(2)防耐火試験とプレファブリケーション
星野研究室では新建材の耐火試験を行っていた。FRPや石膏ボード、リノリュウムなどの床・壁・天井などに用いられる各種の新しく開発された建築材料、いわゆる新建材を耐火レンガを使った試験炉でその防火性能を検定するのである。
田村さんという専門の職員がおられてその試験の作業を担当されておられた。防火・防災には関心があったが、計画論や設計論の研究を志向していたので材料試験の分野まで立ち入るつもりはなかった。しかし、この頃研究室に訪れる建材メーカーのスタッフや技術者から教わることも多かった。
建材の製造技術や製品開発の苦労話など、当事者でなければ聴かれないなどのエピソードを語ってくれた。昭和30年代の後半はプレハブ住宅の黎明期でもあった。松下電器(現在のパナソニック)や積水化学などの企業がプレハブの住宅の開発をはじめた時期である。住宅産業という言葉もこの頃から生まれた。
星野研究室でもスチール家具メーカーの岡村製作所からプレハブ住宅開発のプロジェクト依頼が舞込んできた。星野教授の指導の基に、私と同僚の水野君が担当することになった。星野教授の発案で軽量鉄骨を使ったパネル式組立住宅の可能性を研究開発するというプロジェクトだった。約1年かけていろいろな試作・実験などの試行錯誤が行われたが、残念ながら企業判断で採用されず、その結果、岡村の住宅産業への進出は断念された。
岡村製作所は川崎重工系の(旧)日本飛行機会社で、戦前は軍用機を作っていたが、戦後、航空機を作れなくなったため一部の技術者たちが独立して創設した家具メーカーである。岡村の技術者たちには、乗り合いバスや航空機の機体(ボディ)に採用される板金技術や曲面のハニカムを使ったシェル構造のようなものがイメージされていたようである。柱と梁による軸組構造の建築物にはなじみがなく、岡村の企業方針と技術思想に合致できなかったためであろう。
このプロジェクトで学んだことは二つある。その一つは、性能という概念である。性能とは、機物の機能を数量的に表示し評価する航空機や自動車、船舶などの分野で使われていたテクニカルタームである。岡村の技術者たちはことあるたびに性能という言葉を発していた。それまで建築の分野では殆ど馴染みがなかったので新鮮に思えた。いずれ建築のプレファブリケーションが進めば、建築物にも性能表示が要求される時代がくるのではないかと思った。
もう一つ学んだことはスクールという概念である。岡村の製品開発を指揮し、統括していたのは戦前、航空機の設計に携わっておられた中川さんという技師長だった。そのリーダーの下に編成された設計チームは「中川スクール」と呼ばれていた。企業の中にも「スクール」があった。スクールとは学校のことではない。学派とか流派と似たニュアンスで、学習・教育機能を持った技術者集団のカラーというべきものであろう。技術思想やスキル、技術者としての人格などは優れたリーダーの下で育っていくのだ。「中川スクール」の人達と接して、技術共同体と言うべき技術者たちの気概、矜持が感じとれた。
そういえば大学のそれぞれの研究室(ゼミ)は、教授を主導者とした小さなスクールであるし、建築事務所もそれぞれ独自の技術思想やカラーを持ったスクールである。技術の研鑽とはこうした組織の中に人を育てる全人的なスクール機能があってこそ、全うされるものではないか。異種分野の技術者たちと一緒に仕事をして学んだことの一つであった。
(つづく)