マヌ50周年を迎えて その6
マヌ創業当時のスタッフや仕事について語られます。
その後、ランドスケープアーキテクトとして活躍されたスタッフの昨今の都市デザインへの問題意識に、髙野は影響を受けます。
・・・「親父は山で仙人のような生活をしている」
ご家族から学んだ「環境デザインの使命感」とは?
(本稿は、2014年のマヌ都市建築研究所50周年にあたり故・髙野公男が書き溜めていた原稿をまとめたものです。)
(6)創業期のマヌのスタッフ
共同経営者、水野可健君は九州大学建築学科出身で東大生研時代からの僚友であった。設立当初は、依頼があった設計プロジェクトを二人で分担してこなしていたが、水野君は次第に病院や診療所などの設計や医療施設のコンサルティングの仕事を手がけるようになり、昭和43年、郷里の九州で事務所を開設するためにマヌから去って行った。
渡辺薫夫君は東大生研時代からの付き合いで、水野君と私の二人が千葉市にある工業高校の非常勤講師をしていたときの教え子である。工学院大学を卒業し、設計実務の修行と言うことでマヌに入所し、アシスタントとして仕事を手伝ってくれた。当時はフランク・ロイドの建築に傾倒していたようである。勉強熱心な若者で、すでに建築哲学のようなものを持っており、著名な建築家のエピソードなどを講釈してくれた。少し生意気だったが人柄はよく、「お月さん」という愛称でみんなに愛されていた。若いうちは少し生意気な方がよいと思う。渡邊君は2〜3年ほど手伝ってくれて退所し、後に黒川紀章事務所に転職、虎ノ門病院などの設計に携わりその後独立して渡邊薫夫空間研究所を主宰している。現在は囲碁友達で八重洲の日本棋院で時々手合わせをお願いしている。渡邊君から教わることも少なくなかった。
笛木坦君もマヌを通り過ぎていった一人である。昭和37年千葉大学造園学科を卒業し、フリーの造園プランナー、若手の論客として活躍していた。「建築の勉強もしたい仲間に入れてくれ」というので客員スタッフとして手伝ってもらった。担当してもらったのは住宅公団の南多摩開発局の増築工事や「一ノ瀬マンション」の設計などである。
どこで習ったのか造園プランナーでありながら建築設計のスキルもなかなかなものだった。いつも眠たそうな表情をしているのだが時々ハッとするような名言、笛木節が飛び出す。「描いた図面を消すことをおそれてはいけない」とか「樹木より高い建物を造るべきではない」と言うようなことをつぶやいていたことを思い出す。
ランドスケープアーキテクトとして昨今の画一的で安直な都市デザインの風潮に対してかなり批判的な問題意識を持っていた。2年ほどマヌに在籍し、住宅公団の宅地開発部に就職、住宅団地の緑地設計分野で活躍された。機会がある度に笛木君が手がけた団地の緑地設計の現場に案内された。公団団地初の歩行者専用緑道を提案し、設計したのも笛木君だったと聞く。昭和56年(1986)には「多摩ニュータウン鶴牧・落合地区の緑とオープンスペースの構築」の業績で都市計画学会計画設計賞を受賞している。
笛木君にも教わることが多かったが、ご家族からもいろいろな影響を受けた。「うちの母親は電気洗濯機が嫌いで今でもタライで洗濯している」とか「親父は山で仙人のような生活をしている」などご家族の話もよくしてくれた。今時不思議な暮らしをしている人もいるものだと興味を持った。笛木君は群馬県猿ヶ京の出身である。
父君の笛木弥一郎さんはかつて渋川市に務めておられ、退職後はご家族と共に東京・北区に住まいを移しておられ、雪解けの春になると郷里猿ヶ京の里山の自分で建てた番屋に籠もり雪が降るまで山暮らしをするという「冬里夏山」の生活を続けておられた。笛木君の案内で何回か現地・猿ヶ京に伺いお話を聞く機会があった。「仙人」と言うより温厚な校長先生という風貌で、三国連山山麓の自然の魅力や里人の暮らし方、四季折々の子どもの遊びなどを語ってくれた。猿ヶ京は三国峠の上州(群馬)側要衝の宿場町だったので人や物資の往来も盛んで越後と上州の里人同士の交流も盛んだったという。在職中は、尾瀬の保存運動にも参加し尽力されたようであった。
後年『上越風土記』(朝日ソノラマ・1974年)を上梓され、私には三冊贈呈して頂いた。自然観察と採取された人々の暮らし方・風俗など山ごもりの研究成果がイラストと共に集約されていた。ことに山里の子どもの遊び関する叙述は綿密・詳細で心に響くものがあった。最近、アマゾンで調べたら定価1,800円だったものが古書として11,000円の値がつけられていた。希少本として高く評価されているのであろう。ランドスケープを学ぶ学徒や過疎地問題に関わる専門家に是非参考にして頂きたい一冊である。(東北芸術工科大学図書館にも私の蔵書から一冊寄贈させて頂いている)。三国峠の向こう越後魚沼の郷土誌、鈴木牧之『北越雪譜』(1837年・天保8年)にも比肩する著作ではないだろうか。
弥一郎氏の活動の足跡は猿ヶ京の郷土資料館に収録されている。そこに展示されている氏自筆の三国連山の絵地図からも郷土に対する愛情が伝わってくる。弥一郎氏は郷土の自然をこよなく愛したナチュラリストであった。
直木賞作家・高橋義夫の『知恵ある人は山奥に住む』(集英社1955年)という論述がある。人も回遊魚のようにふるさとに戻るのであろうか。笛木坦君も父君の志を継ぎ、郷里に帰り奥さんと二人で猿ヶ京関所資料館の関守(館長)をされていた。先年、私が妻と一緒に猿ヶ京を訪れたとき、藁葺き古民家の資料館のいろり端で「ここで子供たちが自然と親しむ楽園を創りたい」という笛木夫妻の抱負を語ってくれた。環境デザインの使命感というものがあるとすれば、笛木君ご家族からは「環境を視る目」、「ふるさとを守るということはどういうことなのか」を教えて頂いた。
(7)氏家文利君
昭和43年4月、氏家文利君が入所した。氏家君は横浜国大建築科卒業、一級建築士の資格を持ち、実務経験もあったので渡邊薫夫君が退所した後釜の設計スタッフとして手伝ってもらうことにした。担当してもらった主な建築設計プロジェクトは以下の通りである。
・昭和43年:キャロンシューズ本社(台東区馬道)、キャロンシューズショールーム、
・一ノ瀬マンション(日野市)、住宅公団町田山崎団地集会所(町田市)など
・昭和44年:瑞穂医科工業社員寮(葛飾区高砂)、エビス製靴本社(台東区今戸)、ミツワ産業今戸工場(台東区今戸)
・昭和45年:古川文造邸(台東区今戸)、山口邸(葛飾区金町)、倉田・藤原邸(埼玉県白岡町)ほか
・昭和46年:瑞穂医科工業習志野工場(習志野市)
・昭和49年:柏木邸(目黒区)
・昭和51年:あてらざわや旅館(山形市)
氏家君は設計から現場管理まで手際よく仕事をこなしてくれた。「一ノ瀬マンション」は中央線豊田駅北口通り沿いに建つ5階建ての共同住宅で、クライアントの一ノ瀬氏はこのあたりに広い土地を持ついわゆる首都圏農家だった。近くに公団の多摩平団地(1958年竣工・配置設計:津端修一)が出来、街が拓けてきたのでマンション経営を始めることにしたという話だった。毎週のように本郷の事務所に見えて設計の進捗状況や設計細部のことまで質問されるので辟易した。初めての不動産事業であったので気が気ではなかったのであろう。好奇心の強い好人物のお施主さんだった。
「ぶら下がり建設」という言葉がある。公団などの住宅団地が出来、道路などのインフラが整備されるとその周りの民間の住宅建設が盛んとなり市街化が進むという都市化現象のことをいうのだ。公団・公社の同時多発的住宅団地建設は、自己完結的優良住宅地として評価されるが、首都圏スプロール市街地の呼び水としても機能していたのである。多摩平団地の周辺もそのメカニズムでスプロール型の市街化が進んでいた。
できあがった一ノ瀬マンションはクライアントに喜んで頂いたが、団地開発により周辺の農地が基盤整備されずに宅地化し、無秩序に広がっていく姿を目の当たりにして複雑な思いを残した。
余談となるが、一ノ瀬マンションといえばクリント・イーストウッド主演のマカロニウエスタン『夕日のガンマン』を思い出す。工事は地元の業者さんで鉄筋コンクリート造のマンションを手がけるのは初めてだった。地鎮祭の時、職人やクライアントの親族・関係者からコップ酒を飲まされた。地鎮祭は職人達とのコミュニケーションを図る大切な機会でもある。断り切れずに杯を受けてしまったので帰る途中、中央線の車両の中で白昼から長時間、真っ赤な顔を乗客にさらすことになる。それで「夕日のガンマン」と揶揄されたのである。その後もコンクリート打ちの度に現場で酒盛りがあり設計者もつきあわされた。建築の設計者は酒が強くないとだめだと思った。のんびりとした時代だった。
(つづく)