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マヌ50周年を迎えて その7

いよいよ創業編の最終回です。
髙野は浅草の靴問屋街のビルの設計をすることになります。
設計監理で靴問屋街に通う中、髙野は街の日常や文化に浸かっていきます。

「継続的に同じ地域に通い続けると親しみがわいてくる。(中略)環境に同化し自分もその街の一員となって一緒に呼吸しているような感覚を覚えるのである。」

(8)浅草馬道界隈のビルづくり

 会計士森助紀さんの紹介でキャロンシューズの自社ビルの設計をすることになった。キャロンシューズは婦人靴を扱う問屋さんで、木造2階建ての社屋は浅草馬道(現・浅草六丁目)浅草寺の北、言問通りの一本裏手の通りの一角にあった。このあたりは靴や皮革を扱う問屋や零細・小規模な製靴工場などが集積していた。馬道には隅田川河畔、東武線浅草駅(浅草松屋デパート)からアクセスするのであるが、周辺一帯は花川戸と呼ばれ、靴・下駄・鼻緒など履き物を商う小売店が建ち並び、その北側の馬道・今戸の問屋街と連担してコンパクトな産業地域社会が形成されていた。

 言問通りなど幹線道路沿いを除けば木造の市街地でビルはまばらであったが馬道問屋街の一角だけはビル建設が盛んであった。問屋同士が自社ビル建設を競い合い社業の隆盛を顕示し、その出来映えを自慢し合うという風潮があった。タイル張りの外装やエレベーター付きのビルが上質・最良とされ、それぞれのビルのデザインには経営者の個性的な嗜好が強く反映されていた。

 設計に先立っていくつかの靴問屋さんの自社ビルを見学させて頂いたが、印象に残ったことは、それぞれがオフィス機能のほかに上階に雇用対策として従業員の宿舎を備えていたことである。当時は靴業界に限らず社員の住宅対策が経営の主要な課題の一つで、社員寮を自社ビルにビルトインするケースが多かったようである。キャロンシューズも一階が事務所、二階がショールーム、3〜5階が従業員の寮という複合ビルの造りとなった。

 キャロンシューズの設計・監理の業務で印象に残ったことがいくつかある。社主は別会社(ミツワ産業)の西谷社長が兼務されておられたが、家相にこだわる人で階段の位置が凶相の北東に当たるという理由で設計変更を迫られた。何度もプランを練り直ししてみたが狭い敷地の制約があってうまくいかない。そこで、階段の入り口に神社の魔除けの札を貼ることで凶相を緩和することで納得してもらった。

 建築家の清家清先生(『家相の科学』光文社・カッパホームズ、1969年)によれば、家相は古代中国で生まれたものが日本の宮廷建築に伝わり江戸中期から末期にかけて民間に普及したもので、①建築計画学的、住居学的に根拠のあるもの、②社会的タブーをあしらったもの、③陰陽五行説など全く科学的に説明しようのないものの三つのタイプがあり、③を除いて迷信、ナンセンスとかたづけられないところがある。技術や経済性だけに走りそこに住む人間のことを忘れがちな現代の建築に反省を促すものすら含んでいると言われる。後年、ある都市防災の研究会で清家先生とお会いしお話する機会に恵まれたが、住宅や環境デザインに対する真摯で柔軟なものの見方に感銘を受けた。

 もう一つ印象に残ったことは、基礎工事の際、敷地を掘削しているときに50センチの深さのところから赤銅色に焼けただれた地層が2層出てきたことである。上の層は東京大空襲、下の方は関東大震災の時のものではないかと推定された。当時の遺物、遺構などみるべきものは出土しなかったが、幾度もの災害から蘇る都市の姿を思い起こし感慨深いものがあった。

 キャロンシューズの試みた設計の一つに屋上緑化がある。「無機物化していく市街地に緑を」という考えで屋上庭園を提案し、住宅公団の造園プランナー笛木坦君(前出)に技術指導をお願いし、客土50センチの芝貼り工の構法で完成させた。当初クライアントには喜ばれたが3年後には管理が面倒だという理由で撤去されてしまった。あまり時代を先走るのも善し悪しだと言うことを実感した。

 外装のデザインには苦心した。打ち放しの仕上げは当初から拒否され、タイルはコスト高で断念、それでミュールコートという大理石の砕石を混入した吹きつけ材を使うことにした。色あわせの時、西谷社長も立ち会ったのだが茶系の外装が気に入らず色彩計画に難色を示した。西谷社長には自社ビルには青緑系の色彩というイメージがあったようである。

 色彩計画は設計者としては譲れない一線なので「出来上がったものが満足したものでなければ設計料はいらない」と大見得を切ってしまった。設計打ち合わせにも気合いを入れる勝負所があるのだ。その勢いに負けてか社長は折れて「それなら色彩計画はあなたに任せる」といわれた。外装工事が終わり、仮囲いが撤去されるときは緊張した。建物の全容が巨大なオブジェとして公衆の面前にさらされるからだ。思っていた以上に見映えがよかったので安心した。西谷社長も喜んでくれた。評判がよかったせいか、その後、エビス製靴、ミツワ産業今戸工場、古川文造邸など、次々と浅草馬道・今戸界隈の製靴・皮革関連企業の社屋や住宅の設計を引き受けることになる。

(9)環境デザインと環境同化

 近くには旧遊郭・吉原があり、その名残を残す「吉原土手」や「見返りの柳」などのスポットがあった。地名にしても花川戸や今戸の「戸」という文字は過去の時代には「口」や「入り口」を意味するものであったはずだから地名の由来は吉原への玄関口であったことによるものではないか。歌舞伎十八番の「花川戸助六」もこのあたりに住んでいた任侠をモデルに仕立てた芝居ではなかったか。馬道にしても吉原に通う道は猪牙舟 (ちょきぶね)の水路からだけでなく、馬による陸路もあったはずである。そんなことを考えながら現場に通っていたのである。

 設計や現場監理では、打ち合わせが終わると近くの小料理屋や居酒屋に連れて行かれ、靴業界の実情や裏話などを聞かされた。そもそも靴産業は明治以降、富国強兵策による軍靴の製造から発展した産業で製靴業界は日本皮革(現在ニッピ)など大手の皮革会社の傘下にある。また、製靴業界は小売店主導でデザインのイニシアティブは大手の小売店にゆだねられているという。ファッション性の高い婦人靴の場合、製品のロット数が小さくそのため小規模・零細な工場(殆どパパママの家内工業)に発注していること、ファッションのサイクルは短く、新しいデザインの靴型が出来、販売されると1週間も経たないうちに盗作された同じデザインの製品が出回ることなど生き馬の目を抜くような業界話をよく聞かされた。

 馬道の靴問屋街では囲碁が盛んだった。プロ棋士の指導碁による定例の碁会が開かれていた。打ち合わせが終わると囲碁の相手をさせられた。荒川さんというキャロンシューズの経理担当常務がなかなかの打ち手の人でいつも手合わせを強要された。棋力は今のアマ5〜6段だったのではなかろうか、数目置かされていつも真綿で首を絞められるようにして負かされた。生意気な設計士に一泡吹かせてやりたいという気持ちがあったのかもしれない。

 接待文化というものにはいろいろあるが囲碁には罪のない隠微ないじめの構造があるということを知った。そこで悔しいので仕事帰りには当時浅草の松竹国際劇場の地下や仁丹塔の三階にあった碁会所に通うことになる。国際劇場地下の碁会所では棋士崩れの着流しの打ち手がいて、地方から出てきた囲碁天狗の打ち手が来ると待ってましたとばかりにこの着流しの打ち手が相手をした。「ハメ手」というトリッキーな手筋がある。対局が始まると周りに人だかりが出来、ハメ手が決まるとみんなが拍手喝采をする。一目いくらという賭け碁(目碁)だったから地方天狗はいつもいいカモにされていた。公序良俗とは縁の遠い柄の悪い碁会所だった。

 設計監理で継続的に同じ地域に通い続けると親しみがわいてくる。はじめ芝居や映画の書き割り(セットの背景)のように平面的・絵画的であった街が立体的・実相的な街に見えてくる。観光地のように眺めて通り過ぎる街ではなく、環境に同化し自分もその街の一員となって一緒に呼吸しているような感覚を覚えるのである。

 ところで大分後になって気づいたことであるが建築設計やまちづくり、ランドスケープデザインを志すものはこの同化感覚を大事にしなければならないと思うようになった。それは山形で教鞭を執っていたときに気づいたことで、地元JIAの建築家の作品とデザイン誌を賑わす中央(よそ者)の建築家の作品とでは空間造形の質に決定的な差異があるということである。

 空間の醸しだす雰囲気が前者は風土に馴染んだ心地よい印象のものであるのに対して後者はどこかよそよそしく何故か落ち着かないのである。それは必ずしもデザインや技術の良否の問題ではなくデザイナーの環境同化の度合いの問題ではないか。地元の水に馴染み、風を知り、人々の心を理解する時間の体得的蓄積の差というべきものであろう。ことによそ者のデザイナーが心すべき作法ではないかと考える。

(創業編・完/つづく)

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