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マヌ50周年を迎えて その4

建築設計事務所を開業した髙野。いざ看板をあげてみると、なぜか仕事が来なくなり、しばらく開店休業状態がつづきます。

多摩ニュータウンの開発事務所の仮設建築の仕事を受けた髙野は、初期のニュータウン計画の検討の現場に立ち会うことになります。

「そこには、自然と都市の調和を目指すプランナーや建築家のニュータウンにかける夢や思いが凝縮されていたように思える。」

(本稿は、2014年のマヌ都市建築研究所50周年にあたり故・髙野公男が書き溜めていた原稿をまとめたものです。)

(10)杉浦康平・勝井三男さんのこと

 いざ看板をあげてみると、なぜか仕事がこなくなくなり、しばらく開店休業の状態がつづいた。それでも、ぽちぽちと設計依頼が入ってきた。水野君には大学時代(九州大学)の友人の佐伯氏からの住宅設計の依頼があり、私には前年から取り組んでいたグラフィックデザイナーの杉浦康平・勝井三男氏の山荘の設計・監理の仕事があった。

 杉浦さんは当時、客員教授を務めたドイツ・ウルム造形大学大学から帰国されたばかりだったが、ポスターやLPジャケット、本の装丁などのほか、東京オリンピックのグラフィックデザイン部門の仕事も担当されておられた。事務所は青山通りから西に入った青山学院大学近くの住宅街の2階にあり、中垣信夫さんが助手を務めておられた。

 どこか修行僧を思わせる風貌の杉浦さんは気さくで大変博学の人だった。昭和35年(1960)東京で開催された世界デザイン会議や最近のデザイン動向などの話をしてくれた。東京芸大の建築学科出身だったので、建築論なども話題となった。建築家の磯崎新さんとも親交が深く磯崎さんの建築活動を高く評価されていた。

「世の中を鋭利な目で観察することも大事だが、時にはぼんやりと眺めることも大切だ」など視覚デザインの奥義ともいうべきものの見方を教わった。

 設計の打ち合わせは杉浦さんのレクチャーを受けに行く学習の場でもあったのである。後年、ある出版社のプロジェクト(平凡社:百科年鑑)で一緒に仕事をする機会に恵まれたが、図像の論理性と表現に妥協を許さない厳しい制作態度に圧倒されたことを思い出す。

 冨美子夫人もとても気さくでチャーミングな方だった。打ち合わせに伺うといつも親切に応対してくれた。打ち合わせが終わると、当時珍しかったイタリア料理店にもよく連れて行っていただき、仕事仲間や遊び友達の話をしてくれた。軽井沢・御代田の現場にもご一緒し、スキーやハンティングなども楽しんだ。写真評論家の福島辰男さん、作曲家の真鍋理一郎さんなどとも冨美子夫人を通して知り合い、親しくさせて頂き両氏の山荘のプロジェクトも手がけることになる。

 ところで山荘の作品についてであるが、語るべきものはあまりない。唐松材を使った高床のデッキを挟んだ二戸一のコテージだった。蔀戸が頑強すぎて開け閉めに苦労する設計となってしまった。失敗作とは言いたくないがいろいろご迷惑をかけたのではないかと思う。冨美子夫人には大変お世話になった。残念なことに1982年4月、旅行先のブータンで急逝された。

* 設計:S39年6月、竣工12月。大工:内堀寿三男(長野県北佐久郡御代田町)。敷地:普賢寺所有地。工事費:1.184.000円

(11)勝井三雄さんの年賀状

 昭和40年(1965)、マヌを開設して最初の年の年賀状は勝井三雄さんによるデザインであった。高名で多忙なデザイナーに年賀状のデザインを依頼するのにはためらいがあったが、二つ返事でひき受けて頂いた。

 一晩もしないうちに「出来たから見に来てくれ」と言うので、事務所に伺い版下を見せて頂いた。版下ははがき大の用紙に1ミリ大の黒いドットが4ミリ間隔で縦横、整列に並んでいるだけの何の変哲もないものだった。ただ、用紙の上にはトレペが貼られ、そこにァ・ケ・マ・シ・テ・オ・メ・デ・ト・ゴ・ザ・イ・マ・ス…の手書きの文字と文字の種類やポイント、インクの配色を指示する色票が貼られていた。

 仕上がりがどんなデザインになるのか見当がつかなかったが、できあがってみて驚いた。錯視効果を利用した判じ絵のようなオプ・アートだったのである。先端的なデザインの年賀状の反響は大きく、みんな楽しんでくれたようだった。プロの勝井さんにとっては造作もないデザインだったのだろうが、その仕事の素早さとデザイン力には敬服するところがあった。

3.昭和40~44年

(1)瑞穂医科工業の仕事

 年が明け(昭和40年)、4月を過ぎると仕事が入り始めた。会計士森助紀さんから瑞穂医科工業を紹介され、社屋の建て替えの相談に乗ってあげてくれと頼まれた。

 瑞穂医科工業は手術台などを扱う中堅の医療機器メーカーで、本社社屋は本郷三丁目の本郷通りと消防署通りに囲まれた一角にあった。東大病院の入り口に当たる竜岡門周辺一帯は東大医学部がある関係で、戦前から医療機器メーカーや問屋、医学書を扱う書店が集積していた。

 昭和40年当時は、大通りを除けば殆どが木造の二階屋で、瑞穂医科さんの社屋も木造だった。敷地は100坪ぐらいだったであろうか、創業者(大正8年創業)の根本栄吉会長一族の住まいと会社の事務所が入り子状に立地していたのである。

 相談は手狭になった事務所を鉄筋ビルに建て替えたいという設計の依頼であったが、本社ビルの設計以降、根本邸(根本社長の住宅)、法福寺本堂(根本会長が檀家総代をつとめる曹洞宗の寺院・駒込)、五泉工場(新潟県五泉市)、東京工場(千葉県習志野市)。社員寮(葛飾区青砥)などを手がけることになる。

 本社社屋の設計については取り立てて苦労した点はなかったが、根本社長の住宅や法福寺本堂の設計には手を焼いた。いくつかの設計案を提示したのだが、モダンな住宅には抵抗感があり、「凹凸のないツルツルした住宅はなじめない」と伝統的な数寄屋風の住宅を所望された。

 数寄屋建築の経験は全くなかったので堀口捨巳先生の作品集などを参考にしながら何とか設計をまとめた。和風建築のリテラシー(知識)に関しては施主の方が詳しいのに驚いた。法福寺本堂はRC造だったが朱色の漆塗りの柱を要求されたので困った。関西ペイントの技術スタッフを呼んで助言してもらい、モルタル金鏝仕上げの上にカシューペイントを塗る構法を採用した。五泉工場もRC造であったが、地元の建設会社がRC造の経験が少なく、基礎工事から配筋、コンクリート打ちまで技術指導しなければならなかった。

 東大生研時代、坪井研の先輩諸氏から設計監理のノウハウを学んでいたのでそれが役立った。それは技術者の現場力、現場に望んで問題解決する力というべきものである。現場で直面する問題は、経験の少ない駆け出しの建築事務所にとって厳しい試練でもあった。

 その後、森(会計士)さんの紹介でキャロンシューズ、エビス製靴、三和産業など、浅草・馬道の製靴業界の問屋・メーカーの設計業務を請けることになる。

(2)住宅公団 南多摩開発局事務所

 ある日、ヨットで知り合った日本住宅公団の野々村宗逸さんから電話がかかってきた。「仕事があるからすぐ来い」という電話だった。九段の公団本所に伺うと、話は「多摩ニュータウンの開発事務所の設計の仕事があるが君のところでやるかやらないか、即答せよ」という内容だった。

 有無を言わせない口調なのでイエスといわざるを得なかった。そして、公団から設計業務を受注し、南多摩開発局事務所の設計活動が始まった。敷地は多摩町(現多摩市)京王線聖蹟桜ヶ丘から1.5㎞ほど南に行ったところのなだらかな丘陵地(関戸地区)にあり、あたりは麦畑が一面に広がるのどかな場所だった。

 設計に先立ち、先行的にニュータウン事業が進められていた高蔵寺ニュータウン(愛知県春日井市)の現地事務所を見学した。所長の津端修一さんに案内していただいた。津端さんはレーモンド事務所や坂倉順三事務所を経て、1955年公団発足と共に入社し、多摩平や高根台団地の設計を手がけた建築家で、高蔵寺ニュータウンの事業計画を指揮する所長として活躍しておられた。

 公団ヨット部の創設者であり、ヨット仲間でもあったので親切に対応して頂いた。高蔵寺の現地事務所は増沢洵氏の設計で、仮設建築であったがレーモンド仕込みのセンスのよい密度の高いデザインに感銘を受けた。

 東京に戻って設計構想を練るのだが、増沢さんのデザインに触発されたことは否めない。ヨットをイメージした軽快なデザインにしようと思った。躯体はハイテンションボルトを使った鉄骨構造、外壁は木造の下見板張りの二階建て、屋根は切り妻で、内部は設計室全体が見渡せるように大スパンとした。エントランスは傾斜地を利用して二階のブリッジから入る設計となった。仮設建築なので簡素なつくりとなった。決して会心作とはいえないが職員の人たちにとって概ね評判はよかったようである。

 南多摩開発局の仕事は翌年度も継続し、理事長室の設計、増築工事の設計に携わるのだが、その間、多摩ニュータウン計画そのものにも関心を持つようになる。多摩ニュータウンの計画は昭和38年(1963)、新住宅市街地開発法の成立と同時にスタートし、設計の現場は九段の本所から新築された南多摩揮発局に移った。設計部には野々村宗逸さんを筆頭に、平山平、羽石善宣、本山隆、小林篤夫、春原進さんなどの諸氏がおられた。

 この時期、公団設計チームが取り組んでいたのは自然地形をいかしたニュータウンの可能性を検討する作業であった。このプロジェクトは大高建築事務所が受注し、藤本昌也さんが担当していた。尾根筋の緑地が残りポイント型5階建ての住棟が自然地形に沿ってクラスター状に配置されるニュータウンのモデル設計など自然を生かしたいくつかの案が提案されていた。

 そこには、自然と都市の調和を目指すプランナーや建築家のニュータウンにかける夢や思いが凝縮されていたように思える。しかし、自然地形案は土地利用効率、コスト、工期の面で採用されず、地形を大規模に改変する大造成案による都市計画が採択され都市計画決定される。

 その後、多摩ニュータウンの開発事業はいくつかの変遷を経て現在に至るが、ニュータウン計画の初期の段階に立ち会うことが出来たのは幸いであった。このような経緯もあって事務所の指向は次第に団地設計やまちづくりに向かい、高畠台団地低層住宅基本設計(昭和41年)、花見川団地賃貸集会所(昭和42年)を受注し、やがて公団の配置設計の業務に関わることになる。

(つづく)

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