東京ラブストーリーとは”すれ違い”のドラマっだったのか?

東京ラブストーリーとはすれ違いの恋愛ドラマだったのか?



平成初期とは、言わずもがなTLSに限らず、恋人との連絡手段はポケベル→家デン→公衆電話→どデカイ携帯電話くらいの普及率で、今の時代のようにON TIMEで常にSNSを駆使すれば恋人と繋がっていられるような状況ではありませんでした。



私は昭和53年生まれの42歳。



そう言った連絡手段の意味での通信機器との関わり合いは、大きな節目節目も経験している世代である。

ダイヤル式の黒電話〜ポケベル〜スマホと一通り使って来た世代であり、いづれの良し悪しも良く分かっている。



今回の現代版TLSでは先代TLSの様に、連絡手段の途上状態にないので、当時の様なすれ違いは生じないのではないか!?

っと言う議論があったのも確かだった。



但し、製作者の方々のコメントにもあった様に、現代版のすれ違いもしっかり用意されているとの事だった。



そんな状況の中から、改めて東京ラブストーリーとはすれ違いによる演出のドラマだったのか!?考えてみたくなったのである。



そもそもすれ違いとは??みたいなウンチク話は極力避けたいけど。。。



僕が伝えたい結論は、世の中の現象の大半はすれ違っていて、寧ろ合致している事の方が少ないのではないかと思っている。



恋愛で良くある”価値観”なんかは一番良い例であって、価値観がポイントポイント毎に一致する事はあっても、完全に一致するとか言う事は絶対無理な気がするし、それは僕は良く恋愛相談をウケた時に話のだけど、、



例えば、プロレスが好きな男性がいて、恋人を作るよりも、恋愛関係が馴れ合いになってきて、時には恋人と遊ぶよりもプロレス鑑賞の方が好きな男性がいたとする。

ならば僕はプロレスが好きな女性を選ぶべきだと思うんですね。

プロレスが好きな女性って言うのは結構マニアックなので、多分そこそこ至難の技だとは思います。



ただ、これが逆に女性側に”特定のアイドルが好き”みたいな特にジャニーズが好きみたいな人がいて、それは一種の信仰めいたジャニーズ好きは特に典型的に圧倒的な晩婚の人が多いから、恋愛対象とジャニーズアイドルが別腹だと言い切れる様な女性は結婚には向かないと断言しているんですね。



だから、ジャニーズ好きな女性はジャニーズ好きの男性を探してくるくらい難しい案件なんです。



ちょっと話は脱線しましたが、つまり価値観、特に趣向を伴う価値観は後々必ず響いてくる事なので、そもそも恋愛の天秤に掛けない方が宜しいと思って入るのですが、ともかくすれ違いの話題に戻すと、それは家族や兄弟であっても、人は皆すれ違いの中で生きていて、それを例えば家族とか、恋人と言う見えない枠組みの縛りを生じさせる事によって、すれ違わない様に努力をしているのが人間だと思うのです。

そう考えてみれば、先代版にしろ現代版にしろすれ違う尺度みたいなものは変わらないのではないかと。。。



特に恋愛に関してのすれ違いの多くは、前述した”価値観”のところと”行動力”に大きく左右されています。



恋愛ドラマを作るにあたっては、当然の事ながら幾ら近代化した連絡手段があるとはいえ、携帯1つで用が済んでしまったらドラマにならないので、それは往々にしてTLSのヒロインならば、一か八か愛媛に行ってみるみたいなギャンブルをして、物語を作って行かれたとは思うけど、一般人なら、そんな手間のかかるギャンブルは絶対しないだろうし、逆にそれをみれるのがドラマの良いところでもあります。



じゃあTLSはすれ違いのドラマではなく、何だったのか?と言う事になるのだけれど、僕は1つに故郷のある人とそうでない人の生き方を考えさせられた気がしています。



それは、大きな視点から見れば東京とは?みたいな恋愛に限らない、現代の人々と東京との関わり方みたいな事が問われているのではないでしょうか。



特に、現代版の三上健一の父親が亡くなって、実家に帰ったシーンがしっかり、描出されていたところに凄く脚本家北川亜矢子さんに共鳴しました。



私は、こんなことばかり書いているけど、それは毎日毎日コロナの患者が来るかも知れない緊張感に少なからず晒されている人間であり、今こうやってTLSの事を書いているのも、コロナの事から少し解放される為に文章を書き始めたと言っても過言ではありません。



そして、都心に10年近く住み続けたけれど、将来の事を考えてそれは東日本大震災があったりして、最終的には実家のある生まれ故郷に戻ったのですが、職場は引き続き都心に通っています。



それはとても勝手なシンパシーなんだけど、三上健一があえて東京ではなくて、愛媛に帰って医師を続ける生き方を選択したことに対して、そして、ザ・東京のお嬢様の長崎尚子までも巻き込んで愛媛に連れて帰る荒技を成し遂げたことは、自慢ではないけど、自分の人生にとてもシンパシーを感じてしまったと同時に、北川さんはこのコロナの状況を予見していんじゃないか?っと思う様な共感を覚えているのです。



私自身東京の良さは痛い程感じているし、それは自分を誇れる時間だったのだけど、結婚を機に妻も引き連れて田舎に戻って来てしまった事への罪悪感はありつつ、ただ僕の場合は1hもすれば都内へは出れる事から、愛媛に戻ることにした三上健一程は大きな決断ではないのですが。。。



今、長男だ次男だと言った具合に明治の時代に民法で定められた、家制度みたいなものは薄れつつあるけど、結局そう言った古い慣習は残っているわけで、そう言うある種文化みたいなものを守る風習は良しとされてはいますが。。。



現代版TLSでは、そんなことお構い無し!なんて真っ先に言い出しそうな三上健一が愛媛に戻り、カンチは東京で愛媛時代の同級生と結婚するみたいな話はとても興味深く感じられた気がしました。



東京に住んでみないと分からないことは沢山あって、それを否定する人は自分を否定することに他ならないわけだけど、その人その人が歩んできたその人なりの東京という街との関わり方については、”すれ違い”っという誰もが注目するメインテーマに踊らされてしまいそうな気がして、でも、北川さんは恋愛もそうなんだけど、もっと大きな視点から東京の街にいる若者の姿を表現してくれた様な気がしています。

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