
静かに揺れる、私の時間
ふとした瞬間に、「私は私だ」と思い込んでしまうことがある。自分の考えや感情、行動こそが「私」だと信じて疑わない。けれど、そうやって何かを必死にコントロールしようとするほど、私は私に縛られていく。そんなことを考えていると、ふと「馬車」のことを思い出した。
馬車には、馬と御者と乗客がいる。
馬は衝動や感情、行動を象徴している。勢いよく走り出したり、時には道を外れたりすることもある。
御者は、その馬を手綱で操る存在だ。進むべき道を決め、できるだけ制御しようとする。
そして、もうひとり。乗客がいる。馬や御者を見つめる、静かな存在だ。

日々の生活の中で、私たちはほとんど「乗客」のことを忘れている。
馬(感情や行動)に引きずられるままに走り続けるか、御者(自我)が必死になって馬を抑えようとするか。どちらにしても、私たちは自分の内側の動きに夢中になりすぎて、もうひとつの大事な視点——乗客の存在を見落としてしまう。

でも、もしこの馬車に乗っているのが「私」だとしたら?
「私は御者だ」と思っていたけれど、実は乗客なのかもしれない。
御者が馬をどう動かすかに気を取られるのではなく、馬と御者のやり取りを少し後ろから眺める。
「馬が暴れているな」「御者が焦っているな」
そんなふうに見ているうちに、少しずつ気持ちが軽くなる。
「私」と思っていたものを少し離れて眺めてみると、今まで「私が私を所有している」と感じていたものが、実は「私と思っていたものを私はただ見つめている」に変わる。
そう考えると、不思議なことに心がふっと緩む。
頑張って何かをコントロールしなくてもいいんだと、少し安心する。
もちろん、日々の生活の中でいつも「乗客」としていられるわけではない。
気づいたら馬になって走りすぎていたり、御者になって必死に手綱を引っ張っていたりすることもある。
でも、そのたびにふと立ち止まって、「ああ、私は乗客だったな」と思い出せたら、それだけで少し違ってくる。
たまには馬車の揺れを感じながら、ゆっくりと風景を眺めるのも悪くない。
御者や馬を眺めながら、「ああ、今日も一生懸命やってるな」と、どこか他人事のように見つめてみる。
そうすると、私というものの輪郭が少しぼやけて、思いのほか自由になれるのかもしれない。