「君子豹変(くんしひょうへん)」

 権力を掌握した為政者が独裁者と言われるのは、当たり前である。私でも何かしらの権力を行使できる地位になれば、暴君と言われる様になってしまうだろう。それを防ぐために考え出されたのが民主主義であるのは、私が指摘するまでもなく皆さん分かっているだろうと思いたい。

 「権力者としての資質の問題とは何か」と言えば「君主豹変」の言葉が私には一番適切な要素だと思っている。「君主豹変」とは態度や意見をころころと変える人の事を指す。それが必要な要素なのか、と疑問に思う人も居るだろう。

 君主と言われる人が他人の意見に耳を傾けないと定義してしまうと、それは独裁者である言える。独裁者の逆を名君とするならば他人の意見に耳を傾け、自分が間違っていればその意見を取り上げる、と言えるだろう。

 それが「君主豹変」の本当の意味なのである。だが、それがどうも最近は違う様になっていると感じる。

 ネットで見た昔の選挙公約だが、いざ当選すると殆どその通りに実行された事がない。と言うか真逆の事をしている。その事に当選者が答える事も無いのが実情だ。「君主豹変」と言うしかない。そんな為政者が多いので、諌める為に「君主豹変」を用いられてしまっているのは、言葉を扱う者としては批評したくなってしまう。

 間違わないで欲しいのは、私が特定の政党を支持しようとしているのではなく、飽く迄も言葉の意味に付いて書いているのである。なので主導権を得た政党など暴走するだけだと言うのが実感としてあるので、特定の政党を支持した事は今まで無い。

 権力をどう使うかと言えば、追随者を生み出す事によって自分の地位の安定を確保する事に費やされているのが実情である。

 サウジアラビアは王族による君主制の国であるが、五十年後に主な産業の石油が枯渇した場合の対応を考える国家機関があるそうな。今、我が国で五十年後のあるべき国家像を考えている機関があると言う話を聞いた事が無い。一応、君主制よりも優れていると言われている民主主義国家であるのにだ。

 「子供や孫が住みよい国を」と言った意味の選挙公約は、よく耳にする。確かに耳障りの良い言葉であるが、それを具体的に提示した事例を見た事が無い。極端な話、居酒屋の隣の席で年配の方が「餓死しないだけでよい国だ」と染み染み言ったのを思い出す。

 庶民の感覚として政治に期待しないのは、投票率に現れている。「誰がやっても同じ」と言った感覚が蔓延しているのが実情である。しかし私はそれを悪いとは思わない。確かに選挙率が低ければ特定の支持基盤を持った政党が権力を掌握するのは事実である。単純な話「ダメだな、この政党」と思えれば初めて投票して行動で表す、投票先を変えるとすれば良いので、庶民がそこまで馬鹿だとは思いたくない。

 「選挙は風頼り」と言った政治家が居たが、それで良いのではないかと思っている。庶民など実害が無ければ政治などに関心は持たない。となると実害を感じている人が政治に関心を持っているとも言える。

 現状に満足できない人達の集まりとして、デモ活動を見ている人が多い。大抵の人はその程度で権力者に歯向かうのは得策ではないと、薄々感じているのではないか。また単純な話にしてしまうが、中学生・高校生が何かしたらのデモに参加した場合と、ボランティア活動に従事した時とで、進学時の内申書にどう書かれれるかは、私は言わなくても皆さんには分かるであろう。

 庶民として生きるのに必要なのは「面従腹背」(服従するように見せかけて内心は反抗するの意味)でしかない。権力と戦う事を勇ましく言うのも悪くはないが、墓穴を掘る事が多い。「長いものには巻かれろ」と言う言葉の裏には「面従腹背」の精神があればこその言葉である。

 「面従腹背」と言って一見、権力者に従っている様に見せかけて、何か落ち度があればいとも簡単に裏切る。「それはただの処世術だ」と言われれば言い返す言葉は無いが、誰しもが絶大な権力を握る事はないのだから、権力とどう付き合って行くかと私なりに考えたまでである。

 「君主豹変」を標榜する政治家が出現するのかしないのか。その選択は庶民の力による所が大きい。もし出現が遅れた場合に考えられる状況は、前述に書いた居酒屋での「餓死しないだけでよい国だ」よりも深刻な状態になっていると思うのは、私の杞憂であってほしい。

サポートしていただければ、今後の励みになります。何卒、よろしくお願いします。