迷わぬ羊#1 あらすじ+「ひつじが一匹」
あらすじ
2〜9話
「ひつじが一匹」
「結局、偏見じゃない? 慣れたら絶対に恋愛できるし、早く克服したほうがいいよ」
「恋愛で失敗したことがあるの? さっさと忘れて早く克服したほうがいいよ」
「地球上の生物なんて半分は男なんだから生きにくいでしょう? 早く克服したほうがいいよ」
これらは、うっかり男性が苦手である振る舞いを見せた私に対して、各方面から投げつけられた心無い言葉たちのごく一部である。
反論の余地があるとすれば、余計なお世話だと叫んで生卵を投げつけたい。私だって28歳ともなれば、男性が苦手といえども日常で接するのに困らない程度である。迷惑をかけていない限り放っておいてくれ。あと、私を説教して勝手に悦に浸るな。
叶うなら男性の苦手を克服する前に捻くれたこの性格を克服したい。そのほうが世のため人のため地球のためだと思う。私が心優しいピュア人間になれば、草木が喜んで温暖化も和らぐ可能性がある。実のところはいまだ反省も克服もしていない。
そんなことを考えながら、自分のデスクで計算機を打っていた。
数字がぴったり合い、私はにんまりした。感情の勘定は大変お得だ。こうして誰にも迷惑かけず、私は自分自身の内側だけで精神の平穏を保っているというのに。
「小林さんって、あんな美人なのに独身なんだよな」
「あのキツイ性格は、いくらキレーでもきびしいわ」
「もったいないよな、せっかく美人なのにさ」
ぜんぶ、聞こえてる。キーボードを打ち込む音に紛れて、密やかに私の品定めをしている私語が耳に流れ込んでくる。たまに現れる他部署の連中はどうにもこうにも品がない。
結婚しなくたって幸せになれるこの時代、偏見に塗れたお堅い脳細胞はそちら様ではないでしょうか。未婚であるという肩書きだけで、美人である長所が「なのに」呼ばわりされるなんて腑に落ちない。
彼らのそういうところが苦手だし、男性脳の都合の良さには辟易させられる。単純明快が純粋な良心だなんて思えない。大人の純真はむしろ害悪である。
そういった、男性特有のガサツさが苦手なのだ。無神経で粗雑な言動、及び思考回路に至るまで。男性を一括りにしてみんながみんなソレだとは断言できないけれど、男性のみんながみんなソレの欠片を保有しているように感じてしまう。
まあ、ごく稀に現れる天使のようなレアケースを除いては。
定時の間際、16時52分。あとは今週分の片付けをして早めに帰らせて頂こうかしら、とご機嫌なフライデーナイト。
他人に興味関心の薄い数字人間が集まっているので、基本的に我が経理部はきっかり定時にあがる人が多い。優秀。
私も例に漏れず優秀なので、残るは確認作業をこなして終わり!という今週のお仕事もファイナルステージに突入したところであった。
そこで、清潔な甘い香りがすっかり退勤気分の夕暮れに花を咲かせる。
「小林さん、遅くなってしまって本当にすみません! 領収書、お願いしてもよろしいでしょうか!」
必死な声色に名前を呼ばれて、椅子ごとくるり振り返る。そこには予想通りの必死に頭を下げている柔らかそうな髪の毛があった。この時間に駆け込んでくるのはお決まりの営業部だ。部署全体に華があるけれど、この美青年は毛色が違う。
「道枝くん、オンラインでの入力は営業部でも各自にお願いしているはずですが」
「ですよね、すみません。今週めっちゃ忙しくて。いつもいつも小林さんに甘えてしまっていて申し訳ないのですが!」
「忙しいのは分かります。でも、経理に関すること全てを私たちに押し付けられると困ります」
心の底から申し訳なさそうに懇願するのは、営業部の若手エース道枝くんだ。
きゅるんと愛らしい表情でこちらのハートを無意識に射止めにくるあたり、油断も隙も無い。その表情をされると危うく許してしまいそうになる。
最強の武器を易々と使いこなせているくせに彼はどうしてこんなにも清らかなのか。いや、相手が私でなければあっさり許してしまっているに違いない。道枝くんは魔性である。
「まあまあ、小林さんってばいいじゃないですかあ? 道枝くんかわいいし、小林さんはお仕事早いんだから手伝ってあげましょうよ」
隣のデスクで働いていた後輩の羽野さんが、のうのうと口を挟んできた。もう退勤の時刻なのにメイクの崩れがないどころか、前髪のカールまで完璧な女性社員。
やれやれ。道枝くんを庇いつつも、結果的に仕事は私にやらせてくれるらしい。ありがたくて笑っちゃう。
ああ、もう最悪だ。いくら他人に興味のない経理部とはいえ、このやり取りの後に道枝くんを切り捨てて定時で帰宅すれば私の人間性が疑われる。「性格キツイよね」と「性格悪いよね」の間には超えてはならぬ隔たりがあるのだ。
「わかりました」
そうだ、私はデキるウーマンだ。独身貴族、働かねばならぬのだ。少子化の一途を辿るこの時代、他の女性たちが子どもを産んで国に貢献してくれるのなら、労働して税を納めて生きるのが己の使命。
頷いて領収書を受け取ると、道枝くんはきらきらと顔面を輝かせて「大変ありがとうございます! 小林さん、いつも優しくしてくださるから甘えちゃうんですよねえ」とお礼を告げた。
それから「ごはん奢らせてください あとで連絡しますね」と耳元にくちびるを寄せて、囁くように言葉を残していった。
どいつもこいつも要領の良い奴ばっかりで嫌になる。私なんて国の将来まで考えているというのに、みんな自分のことばっかりじゃんか。
◾️
道枝くんの第一印象は、天使である。柔和に微笑んでいて花束みたいな甘い香りがして穢れのない無垢な存在。私の嫌う男臭さがまったくないのに女特有のじめっとした湿度もなく、どこまでも清らか。
彼の入社当時、多くの女性社員が色めいた。大学卒業後の新卒入社、そこから数年が経過しているためとっくに成人しているのだが天使のような道枝くんには美少年という表現がしっくりくる。
領収書の記入の片手間でたわいもない話を続けるが、端的に言って私は美少年が好きだ。とても、だいすきだ。
男嫌いのくせに! けっきょく顔が良ければいいのか! 若い男が好きなのか! などと野次を飛ばされてもかまわない。好きなのでどうしようもないのである。
もし反論が許されるなら、「男性と美少年はまったくの別物、さらには美少年は恋愛対象ではなく観賞用」という持論を提示したい。
美少年という存在は、こっそり眺めてたまに話しかけて何かを買い与えて「おねえさんありがとう、だいすき!」とか言われたら至高。それ以上に距離を詰めることはないし、こちらの認知されることさえ必要ない。
ふわふわと甘い砂糖菓子を舐め、現実の溝鼠色など知らず、鮮やかなお花と柔らかい小動物に囲まれて成長してほしい。美少年よ、永遠なれ。
したがって、他部署の後輩社員である道枝くんは観賞用としては大好物だ。彼はいつだってとびきり可愛い。異議なし。
美少年と呼ばれる年齢はとうに過ぎており、スーツに身を包んで月給を貰うサラリーマンを少年と呼ぶには些か不釣り合いな面もある。たしかに、ある。
しかし彼には天使のように綺麗な顔立ちのほかにも美少年と称するに相応しい要素が幾つもあるのだ。
お酒に弱い、かわいい、清潔ないい匂いがする、スーツにリュックを背負っている、かわいい、人懐っこい、ずるい、あざとい、かわいい。
ほらね、素質は十分でしょう。これを美少年と形容せずになんと呼べばよいのだろうか。
道枝くんは他の男性社員たちとは別物。職場の後輩としては好きでも嫌いでもないけれど、弊社のアイドルとしては正直だいぶ好きのカテゴリーに分類される。
社会人として真っ当に生きていれば本物の美少年に触れ合う機会など皆無なわけで。そうなると、やはり25歳にして現役の美少年である道枝くんは我が社において重要な人材で間違いない。ありがとう人事部。ありがとう美少年。
ただし彼はあくまで観賞用である。ほら、よく言うでしょう。美少年とふるさとは、遠きにありて思ふもの。
『お疲れ様です、道枝です。小林さんにはいつも大変お世話になっているので、今週も一杯ご馳走させてください!』
だから、毎週末のフライデーナイト。こうしてお誘いメッセージを受信するのは距離感のバグが起きているとしか思えないのだ。
道枝くんには注意が足りない。こんなにもかわいいのだから、いつか危ない目にあっても知らないよ。
私は理性があるほうなので毎週誘われるからといって「え? これワンチャンいける?」などと自惚れたりしないものの、みんながそう安全とは限らない。あと、間違っても天使に雄っぽさを感じたくないからよいものの。だから私は大丈夫。
こちらからメッセージを返信した。私が職場の人間で私用スマートフォンの連絡先を教えあっている人間はごく僅かだ。道枝くんの他には、同期の奴とか。
『誰かの所為で残業になったのですが、19時にはあがります。いつもの居酒屋でいいですか?』
『かしこまりました! 僕、お腹ぺこぺこです! ご確認よろしくお願いします』
いったい何の確認をよろしくお願いされたのか。分からないが、とりあえずこの返信からしても道枝青年の愛らしさが伝わると思う。噛み締めたくて何度も読み返してしまった。
道枝くんから初めて金曜の夜に誘われたのは、彼がまだまだ新人だったときである。
取引先の女性からしつこく誘われていることを領収書から察した私が「大丈夫なのか」とやんわり訊ねたことがきっかけであった。すると彼は困ったように眉を下げて笑い、「僕、女性が苦手なんです」と答えたのだ。
これまであまり女性とは関わってこなかったらしく、執拗に迫られた際の対処が器用にできないらしい。今の彼ならもうひとりで平気だろうけど、当時はまだ新人だったので器用にあしらうこともできなかったというわけだ。
女性が苦手だと恥ずかしそうに告げる美少年に噴き出しそうな鼻血を堪えつつ、奇遇にも近しい境遇の私は相談に乗ってあげることになった。
ちなみに聞いたところによると、道枝くんは私のように屈折した偏見によって異性を忌み嫌っているわけではなかった。ただ、迫り来る獰猛な女性に怯えてしまうらしい。かわいい。
そんな話をしつつ、22時にきちんと解散した。私が先輩なので当然のようにご馳走してあげると、「次回は僕に奢らせてくださいね」と頭を下げてくれた。
社交辞令を律儀に守る道枝くんが何かと理由をつけてそれから毎週誘ってくれるようになり、なんともう3年程度この関係が続いている。
仕事のある金曜日はほとんど毎週欠かすことなく二人で飲んでいる。道枝くんは、わざわざ先輩である私にご馳走するための大義を作ってくるわけだ。今日の領収書の記入なんかもまさにそれである。
したがってもれなく残業になるわけだけど、それを乗り越えた先で今宵も合法的に美少年とお酒を飲むべくいつもの居酒屋チェーン店へと足を運んだ。
道枝くんはこうやって他人の懐に入り込んで営業成績をキープしちゃうんだろうな、と分析してみる。他人に土足で踏み込まれるのが大っ嫌いな私でさえ、迂闊にも心を開いてしまっているのが良い例だ。
約束の19時を僅かに過ぎてしまったせいで、道枝くんから「先に着いています」という連絡をもらった。
入店してすぐ「待ち合わせです」と店員さんに伝えれば店内奥の席に案内される。
酔っ払いたちの笑い声の隙間で流れるBGMは、抑揚のないボーカロイドの歌声だ。ふうん、センスいいじゃん。痛々しくて心臓にナイフぶっ刺されるくらいの音楽が好みだ。
大人になったつもりでも、私はそういうしんどい凶器を抱いていたいのだと思う。共感性羞恥で酒が飲める居酒屋ってすごくない? これだもん、毎週来ちゃう。
機械的な高音に耳を傾けて、脳内だけで口遊む。そんなことをしていればすぐに目的の席へと辿り着いた。
「小林さん! 遅くまでお疲れさまです」
遅くなってお疲れなのはあなたのせいだよ。
私を見つけた道枝くんが立ち上がって挨拶をする。柔らかな髪を耳にかける仕草がなめらかで、羽のような毛先がふわりと揺れた。
「天使オブザイヤーですね」
「へ?」
「おめでとう。まだ上半期だけど、今年も受賞は確定です」
天使と仔犬のハーフである25歳の美少年は、年齢を感じさせない幼い笑みで私を出迎えた。嫌味をひとつ溢してしまう。これは持病。
「道枝くんは早かったですね」
「すみませんってば、僕奢りますのでたんとお飲みくださいませ」
「破産させてやる」
「そう、その調子。モチベーションは大事です」
席に着いて電子メニュー板を眺めてみると、道枝くんがすでに注文を済ませてくれたようだった。注文履歴を確認すると、私の好物であるだし巻き卵が表示されている。さすが。
「小林さん、ハイボールでよかったですか?」
窺うようにこちらを見遣るけど、綺麗な顔にはさりげなく自信が滲み出ている。フリスビーを咥えた犬が褒めて褒めてと尻尾を振っている様子に近い。理想の上司でありたい私は、深く頷いてお礼をした。
「正解です、わたしがハイボールを飲みがちなのよく覚えてくれていましたね」
「小林さんあるある、食事のときはハイボール飲みがち」
「ハイボールあるある、種類あるけど結局値段が同じなら器が大きいのを頼みがち」
「というのを見越して、今回は両方注文しておきました。飲み比べしましょう」
潤ったくちびるの端を大きく持ち上げて微笑む道枝くん。
見計らったかのような絶好のタイミングで見慣れた大きなジョッキに注がれた黄金の液体と、もうひとつ、小ぶりなグラスに注がれた液体の計2杯が運ばれてきた。
店員さんから2杯とも受け取った道枝くんが私に小ぶりな方を渡してくれたので、それを遠慮なく手に取る。
そして、乾杯。ふたり同時に冷たいガラスに口付けた。
「道枝くん、有能って言われるでしょ」
「ええどうも。居酒屋での注文は思いやり、返信の長文は重い愛、でお馴染みの道枝です」
華金の知多ハイボールは、なんだか大人の味がした。私も大人になったから分かる。これ、美少年にはまだ早い。大人になったらもっと大人になっているような気がしていた。子供の頃に想像した28歳の私は、もっと28歳らしい振る舞いをしているはずだったのだ。
恋愛や結婚というワードがもっと近い場所にあって、なんなら脳内のすぐに取り出せる場所に出産や育児まで置いてあると思っていた。
「知多ハイボール、おいしいですか?」
「美味しい、と、思います」
「おもいます?」
まあね、これも現実。
「同じハイボールなのにこっちのほうが高級だということは、この味が『美味しい』なのだと思います。という意味です」
むしろ私のハートには、2人の14歳が住んでいる感覚だ。それって、いけないことだろうか。永遠の中2といいますか。
「なるほど。では質問を変えますね、どっちのハイボールのほうが、小林さんの舌の好みに合いますか?」
道枝くんは、狂いなく整った顔の表情を柔らかくして訊ね直した。賢い子だなあ、と思う。沢山の語彙を引き出しにしまっているだけでなく、それを自由自在に出し入れする柔軟さを持っている。
その場に応じて、ユーモアや距離感を調整できるコミュニケーションDJ。その一方で誰に対しても平等な距離感を保とうするあまり、誰とも親しくなれなくて、誰にも合わせることができない私の能力値の低さといったら、もう。
だけど、そんな大人失格な私ごと、まるっと愛してほしいと思う。たしかに傲慢でしょうけど、あのね、大人ってみんなそうじゃない? 腕が長くなるにつれどんどん高い棚に上げすぎて、いつのまにか誰の手も届かないところにまで来てしまった。
こんなの、もう恋愛なんてできっこないね。別にしたくもないけれど。
「道枝くんの角ハイ、一口もらってもいいですか?」
「ああ、はい、どうぞ」
「よかったら、こっちも飲んでみる?」
小ぶりなグラスにうっすら付着した口紅を拭き取って渡す。交換してやってきたのは持ち慣れた大きくてごついジョッキだ。もうすっかり落ちている口紅の跡地を見つめながら、道枝くんが私を呼んだ。
「小林さん」
回し飲みなど苦手だっただろうか。強要したつもりはなかったけど、他人の口紅がついたグラスって確かにちょっと不気味かも。
申し訳なく考えつつ、「はい」と返事をした。すると道枝くんは乾杯直後にして、すでにじんわり赤みがさした瞳でこちらに訴えかけてくる。
「僕のほうが後輩ですし今は仕事中じゃないですし、敬語、使わなくていいですし」
「え、なに、どうされましたか」
「気まぐれに敬語を解かれると、なんかどきどきしちゃって心臓に良くないのでやめてください」
もしこれが確信犯なら、道枝くんは大天使じゃなくて小悪魔だ。
彼は声に出す前に網目の細かいフィルターを通すタイプだから、一語一句、彼の言葉で伝えてくれているのだろう。ほんとうに、女の子に慣れてないのかもしれない。たしかに社内でも女性とは適切な距離を置いているように見受けられる。
ほんと、助かる。
男嫌いな私のときめきは美少年からしか摂取できないし、それが法律で許されているのは道枝くんだけなのだ。通勤電車で見掛けた学生服のリアル美少年から摂取しようとしたら、まあ、ほら、いろいろ大変なことになっちゃうでしょ。
飲み慣れたほうのハイボールを舌に馴染ませてみながら、私は適当に謝っておいた。
「ああ、ごめんなさい。気をつけます」
「じゃなくて!退勤したら、もう、僕には雑な口調で話してほしいんですよ」
「わかったわかった、あんまり、職場の人間と距離を詰めるのは好ましくないんだけどな」
「もう3年も飲んでる仲ですよ、ちょっとくらい、距離、縮めさせてくださいよ、うう」
知多ハイボールを飲みながら、妙な熱量の道枝くんが説得紛いなことをしてくる。
そして正直、私は後輩に慕われる側の人格者ではないのでこんなふうに擦り寄ってきてくれるとどうしようもなくかわいいのだ。道枝くんの可愛さは、掘っても掘っても湧いてくる。まるで、かわいさの油田。つまり私は石油王か?
「ハイボール1杯目で、よくそんな酔っ払えるねえ」
「コスパいいんです、僕」
「ちなみに私は、角ハイのほうが好みでした」
「小林さんもコスパがいいですね、僕といっしょ」
「ほらほら、焼き鳥でも食べなさい。空腹にお酒はよくないよ」
他人に、ましてや職場の人間に気を許すことを良しとしていない私だけど、道枝くんの可愛さに免じて敬語は解除してあげることにした。
道枝くんはただ美少年というだけでなく、男性特有の粗雑さや乱暴さが無い。言葉の端々に繊細さを残している。あと、かわいい。
気付けば私の屈折した心もだいぶ懐柔させられていたらしい。お皿の焼き鳥が減っていく。緩やかな会話と共に時間が流れていった。
アルコールに弱い道枝くんがふわふわしてきて「そろそろ烏龍茶にします、迷惑かけたくないし」のターンになり、アルコールに強い私も「いったん烏龍茶しとこ、あした浮腫みたくないし」のターンを迎えた頃。ふたり、湯気の立つ烏龍茶が注がれた湯呑み茶碗をちびちびと舐めながら会話を続けていた。
「小林さんって、男の人が苦手なんでしたっけ」
「うん、苦手」
久しぶりの議題だ。もう、なんていうか、この歳になるとそこにあえて触れてくる人は激減した。むしろ気の強いアラサー独身OLには、恋愛話はタブーみたいな空気感すら伝わってくる。まったくもって余計なお世話だが。エゴが潜んだ親切心ほど、薄っぺらくて寒いものは無い。
とはいえ私は無神経にずけずけと質問されることも非常に嫌うので、生きにくいにも程がある。男性が苦手なんですトークは、正直とっくに私の中で飽きがきていた。そこから繋がる恋愛論なんて最も擦られまくったネタのひとつだし、私の場合は大抵お説教に収束されていくから。
気配り上手の道枝くんがこんな最大公約数みたいな話題を振ってくるなど期待外れだったので、思わず顔を顰めてしまう。上司のため息を見つけた彼は楽しげに笑った。
「この話題、そんなに嫌ですか」
「まだセーフかな、語尾に『はやく克服したほうがいいよ』って付いたら即退場」
道枝くんは甘く染まった頬の高い位置をふにゃりと溶かして、緩やかに目尻を下げた。微笑と呼ぶにはあまりにも幼くて、笑顔と呼ぶより自然な表情。
喜ばせることを言ったつもりはないけれど、彼は心底嬉しそうに「言うわけないでしょう、そんなこと」と笑った。
「克服なんてしなくていいですよ、大人になっても苦手なものはきっと一生苦手なものです」
自分は苦手側じゃないという自負が垣間見えて、なんだかよかった。
「好き嫌いは我儘の始まりだって、よく言うよね」
「言う人もいます」
「だけどさ、嫌いなものがないひとってなんか気持ち悪くない?」
「感覚のバグが起きてるか善人気取り、あるいはシンプルなバカですね」
むかしから、頭の良い人が好きだ。まさにちょうど目の前の美少年のように、イチを話してジュウを理解してくれるような人がいい。
贅沢な私は「こんな私を分かってくれるひと」を永遠に探し求めている。出会った暁には親友になってほしいし条件が揃えば恋人、いや叶うなら家族になりたい。
私自身は他人を分かろうとする努力なんてしてこなかったくせに、相手にはそれを求めている。エゴの権化だな、まったく。
「まあ、わざわざ嫌われたくはないんだけどね。別に好かれたくもないけどさ」
「自分以外の何かをひどく嫌っているひとのそばって、確かに居心地よいですからねえ」
屈折したって、光は光。性善説過激派だし、私だけが悪役にはなりたくない。私よりもほんのちょっと悪くて、だけど生きるのが上手だから悪に染まったりなんかしない。
それでいて不器用な私のことも正義の方向にしれっと引っ張ってくれる人。ねえ、どこかにいませんか? 私だって陽の側に行きたい願望はあるからね。できれば無理せず、ぬるっとそちら側に移動したい。
「道枝くんの嫌いなものは何?」
「さて、なんでしょう? 言われてみれば、僕、嫌いな物って無いかもしれませんね」
「Bの善人気取り!」
「あ、正解」
やんわり酔いが回っている道枝くんは、持ち前の上品な語彙力の隙間に鋭利な槍をちらつかせる。
「自分の好きなものを嫌いって言われるのはそんなに嫌じゃないよね」
「でも、逆に僕が嫌いなものを好きだって言ってる人は嫌かもです」
『理想が高くなる』っていうけど、理想ってある種の積み重ねだと思う。
たとえば、もともと「年収600万円の男性と結婚する!」を目標にしていた女性の理想が高くなるっていうのは、「やっぱり年収数千万円の男性と結婚したい!」とか言い出すことではない。
むしろ「年収は400万でいいから、子供好きで高身長で料理上手な男の人がいいわね」って言い出すみたいなこと。あのね悪いけど、適切な妥協ができる人はとっくに結婚してるから。
結婚がしたいわけじゃないけれど、そちら側にいきたいなあと思うのだ。そうしたら『なのに』呼ばわりされなくて済むし、もう少し生きやすくなるんじゃないかと思う。
「じゃあ、道枝くんの大好きな人が道枝くんの嫌いなものを好きだって言っていたらどうする?」
「うわあ、待ってください。それはめっちゃくちゃ嫌ですね、想像するだけでも嫌だ」
ぞぞぞとわざとらしく震わせた自分の両肩を抱きしめながら、道枝くんは邪気を払うように首を振った。
「自分勝手で申し訳ないけれど頼むから、僕の大好きな人にはラブソングを自身の恋愛と重ねてほしくないし、人が死ぬ話で泣いてほしくないですよね」
そして天使のような面で微笑みながら、棘を刺してくるからたまらない。このときめきの所在は私がボカロを聴いちゃう理論と近くに位置する。
「好きなものはそれぞれあるけど、嫌いなものは一致する相手が理想ってわけだね」
「僕思うんですけど、プラスの価値観が合う人同士は笑い出すタイミングが合う人同士で、マイナスの価値観が一致する人は笑い終わるタイミングが一致する人なんですよ」
いつになく饒舌に語った後、「これ、伝わります?」と恥ずかしそうに自嘲する美少年。伝わりすぎてしまって、嫌だった。
時刻は回って品行方正な22時、各々が電車に乗る別れ際。
華金の雑踏に紛れて、道枝くんが私に訊ねた。
「小林さんはラブソングとか感動する話とか、そういうのお好きですか?」
「なに、むしろ好きそうに見える?」
「ふふ、ならよかったです」
浅く酔った思考回路ではそれが面白く思えてしまって、私たちは同時にけらけらと笑った。だけどよく考えたらこれって別に面白くなくて、ふたりともすぐに笑い終わった。
意外と背の高い道枝くんは、スーツ姿で夜に溶けるとまるで大人の男性みたいになる。華やかな美貌があまりにも惹きつけるので、電車を待つ老若男女が彼に視線を奪われていた。
男嫌いの崖っぷちOL、小林羊の数少ないときめき摂取の最終手段。美少年とのじんわり微熱なフライデーナイトが地下鉄ホームの闇の奥へと吸い込まれてゆく。
「あ、電車きましたね!羊さん、おつかれさまです」
さらりと呼ばれた名前が耳に馴染まず、乗り込んだ電車の中でひとり小さく繰り返してしまった。
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