無果汁キラージュ#1
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ここは、駅からかなり離れた場所にある某ファストフード店。
学生が帰宅した21時の適度な賑わいは、パソコンを開いて作業をするスーツ姿の社会人にとっても、逢瀬を楽しむカップルにとっても、またはさっさと食事を済ませたい人にとっても絶好の場所である。
学ラン姿の童顔美少年、ナビは困っていた。
「ナビくんを想像しながら選んだよ、きっと似合うと思うんだ」
「はあ、そうですか」
「早く開けてみて。ナビくんがつけているところ、見たいなア」
意気揚々とプレゼントを差し出すA氏という男は、こちらが感謝と歓喜で涙するだろうという期待を隠しもせず無邪気に催促してくる。拒否できない強制的な空気感。立派なハラスメントだ。
正面から押し寄せる彼の期待の波を避けながら「では、失礼します」と呼吸を置く。包装を解いて上品な小箱をぱかりと開けた。
正直、ちっとも好みじゃない。しかし目の前のA氏は、ナビの好感度が上がることを疑いもせずに反応を窺ってくる。
箱の中身は一匹の蝶が羽ばたく様子をモチーフにしたピアスであった。埋まっている紫の石粒に罪はない。いや、どうだろう?
「僕、男子高校生なんですけど。蝶々って女の子すぎないですか?」
「時代錯誤だね、それにナビくんには性別なんか関係ないよ」
性別の話じゃない。個人の趣味の話だ。ナビは湧き上がる殺意を溜息で逃した。
「ありがとうございます」
ナビは微笑みながらそのまま箱を閉じた。
「つけてみないの?」
「はい、結構です」
「お手洗いに行ってきても?」
「どうぞ」
不満げに席を立ったA氏を快く送り出し、去り行く背中を見つめる。
すっかり見えなくなった頃合いで、意を決したナビは右隣の席に座っているスーツ姿の女に声を掛けた。
「なんですか?」
「ん?」
「聞き耳を立てていますよね。僕たちが会話を始めてからイヤホンを外したでしょう」
「気の所為では?不用物を押し付けられ、さらに礼まで求められたストレスによる八つ当たりだろう」
「自白しましたね、逮捕です」
右隣に座っていたベージュのスーツの女は机の上で開いていたノートパソコンをぱたんと閉じ、頬杖をついて不機嫌を露わにしたナビを見遣った。そして浅く頭を下げる。
「失礼したな。きみたちの関係が興味深くて、つい」
「やめてください、単純に不愉快です」
「単純に?」
「というか、非常に」
華奢な体躯が着こなすジャケットと、揃いのスカートから覗く美脚。身なりは端々に気遣いが感じられるのに、他人を気遣う様子は見られない。
ナビは言い返したい衝動をぐっと堪え、刺し貫くほど睨め付けた。飛んでいる1匹の羽虫が死んだ。ナビは「度の超えた美女にマトモな人間はいない」という偏見を改めて胸に抱いた。
「たしかナビくんといったね? 名前に因んだプレゼントだなんて片腹痛いぞ」
「記憶を消すか捕まるかしてください」
ナビとは、韓国語で蝶々の意味がある。
A氏が戻ってくるのを視界の端で捉えた女は挨拶もなくパソコンを開き、優雅に作業を再開した。腑に落ちない。今日は厄日か?やたらとストレスがたまる日だ。
ぽてぽてと歩いてきたA氏が席に着くと、ナビは「そろそろ出ましょうか」と提案した。
A氏も頷き2人が立ち上がると、「あのー、」隣の席から聞こえてきた女の声に耳を引っ張られた。
「プレゼントのイヤリングの宝石、イミテーションですよ」
サタンも光の天使に偽装する、とはよくぞ言ったものである。まるで人畜無害なエキストラのようでありながら、一瞬にして空気を凍てつかせる。
「これは善意なんだ。まだ若い彼が本物のアメジストと勘違いして、恥をかいたら気の毒だろう」
言葉とは裏腹に、面白がっているのは一目瞭然だ。突如として無礼をぶっかけられたA氏が不愉快そうに顔を顰める。
「っ、余計なお世話だ」
怒りと動揺で震えるA氏の声を聞くと、「あーもう、」と諦めがナビの全身に染み渡っていった。まったくもって、その通り。
「僕は、石が着色されたものかどうかくらい自分で見分けがつきます」
スーツの女と目を合わせて言う。彼女の顔はにやにや笑っていた。
浮かれがちなA氏の勘違いは癪に障るが、ナビは気の良い人間を無駄に傷付けたいわけではない。トドメは丁寧に刺すのが、殺人鬼として最低限のマナー。
「おにいさんは、善良です。“天然石”と示された紫色の綺麗な石はアメジストだと信じるくらい、純真な人です」
「ナビくん、」
「でも、この世には落っこちていた天然の石ころに着色を施してアメジストと思わせる人間もいるんですよ。しかも、法律ではそういう人間を悪者とは言い切れない」
ナビはそっと甘く囁いて、蠱惑的な笑みを浮かべた。羽のように長いまつ毛が伏せられ、ぞくっとする美貌が浮き彫りになる。
「ごちそうさまでした、おにいさん」
「ナビくん、」
呆気に取られたA氏は、店内の注目も気にすることなく学ラン姿のナビに縋りついた。情けない大人を冷ややかに見下ろすナビは、胸の中をからっぽにするくらい長く深いため息をつく。
そして、掴まれていた手を容赦なく払い落とした。吐いたため息が足元に積もっていく。
「察してください。あなたとはもう二度と会いませんっていう意味です」
もともと好意を持っていたわけではない。恋人同士でもない。ナビにとってのA氏は『にこにこしておくだけでごはんをご馳走してくれる人』だ。
浅く頭を下げて「これまでご馳走様でした」と告げてから、彼は素早く立ち去った。
ぽつんと立ち尽くすA氏には、空気ごと取り残された哀愁だけが漂っていた。
「ねえねえ、おにいさん」
ナビの姿が見えなくなった頃、その光景をまるでお祭りを愉しむかのような面持ちで見届けていた隣の女がA氏に弾んだ声を掛けた。
一部始終を目撃していたとは思えない声色にA氏は怪訝な顔をしてしまったが、スーツ姿の女はにんまり微笑を浮かべている。
「イミテーションでよかったですね。リサイクルショップで売られずに済みますよ」
もはや喧嘩を買う気力もなく、A氏は無言で彼女を見据えることしかできなかった。もしも悪魔が存在するならこの顔をしているだろうから覚えておこう。
上機嫌な女は、「でも念の為、」と大切なアドバイスを残してくれた。
「フリマサイトは確認しておいたほうがいいですよ? もし彼が極悪人だった場合、“天然石のイヤリング”と書いて売るだろうから」
嫌な奴にも程があるだろ。A氏は顔に刻まれた絶望の皺をさらに深めた。
すっかり満足した彼女は途端に興味を失って、再びパソコンに向き直る。
頭の裏では蝶のピアスを受け取ったあの瞬間の、極上の美少年の表情を巻き戻してリプレイしていた。かなり、良かった。
ガラスを紫に着色したものを“天然石”と呼ぶならそれは問題があるけれど、天然でできた結晶の石に紫を着色したならそれは“天然石”で間違いない。
したがって、多少の誇張はあるにせよ事実無根とは言い切れないのだ。それこそファンタグレープのブドウと同じくらいには事実が入っている。
まあ、ファンタグレープって無果汁だけど。
◾️
さて、ここは駅の中に位置する某ファストフード店。
外仕事で短いランチ休憩を挟むスーツ姿の社会人にとっても、ワンコインで長々とお喋りしたい学生にとっても、絶好の場所である。
「エラーくん、よく食べるね」
「ナビちゃんは食べなすぎる」
「ポテトで満腹だよ、ハンバーガーまで食べたら向こう3日は胃がもたれる」
放課後。同じテーブルを囲むエラーはナビと同じ高校に通う男子生徒だ。ちなみに男女比10:0の男子校である。
「エピソードトークしてもいい?」
「面白いならいいよ、つまらなかったら一年以下の懲役または100万円以下の罰金ね」
「ストーカーと同じ刑罰か。オッケー、話す」
「自信ヤバ」
食べかけのハンバーガー(2つめ)を包み紙ごとトレイの上に置くと、ストーリーテラーエラーの顔つきが芝居がかったものに変わる。
「今朝の話ね、俺が乗ってきた電車は満員だったの。だからこれは仕方ないことなの。すぐそばにいた若い女性のスマホ画面が不可抗力で見えちゃったの」
「見たくて見たんでしょ、被害者面するな」
「まあ見たくて見ようとして見たんだけど、そりゃあ見るよ。だってね、その女性、目が真っ赤でいかにも夜通し泣きましたってかんじなんだもん」
「ワオ」
エラーは妙に惹きつける話し方をする。エラーならばデモの中心を走るヴィーガンにだって、断食中の僧侶にだってハンバーガーを買わせるだろう。彼がハンバーガーを食わせられないのはナビただひとりである。
「で、そのスマホはね、メッセージをやりとりしてるトーク画面だったわけ。一人目の相手が『隆二』で、そこに緑の吹き出しで『もう二度と会いません』って送ってた」
「ああ、別れちゃったのね。失恋で泣いてたのか」
「と、思うでしょ? 俺も思った」
「ちがうの?」
「違くないんだけど、面白いのはここから」
隣の席の人が入れ替わるのを視界の隅で捉えながら、ナビは前のめりになってエラーの話に聞き入っていた。
「さて、トーク画面は『隆二』から『みほ』というおそらく女友達に移ります」
「まあ、つらい朝だって女友達と連絡くらいとるだろうよ」
「『みほ』には自分から何件も連続で送っていて、まだ返信がないのにさらに追って送信してた。親しい関係性と、彼女の切羽詰まった状況が推測できる」
「で、『みほ』にはなんて送ったの?」
真剣にナビが促すと、エラーは口角を持ち上げてキラーフレーズを吐き落とした。
「『昨日の夜に隆二さんから、“こんばんは、妻です”ってLINEきた』」
2秒で意味を噛み砕き、2人同時に両手で自分の肩を抱きしめる。寒気がする。
「ゾゾゾ」
「ゾゾゾでしょ? やばくない?」
「かなりやばいし、面白かったから無罪判決」
話に終止符が打たれると、エラーは「よっしゃ」と席から立ち上がった。いつの間にやら彼のトレイに乗ったハンバーガーたちは抜け殻になっていた。
「俺、まだ足りねーからナゲット買ってくる」
「まだ食うの?」
「まだまだ食うよ、いってきます」
「いってらっしゃい」
財布のみを持った身軽な友人を送り出し、ナビは隣の席の客に声を掛けた。
「で、本当になんなんですか?」
隣の席で一杯のコーヒーだけを机に置いた女は、きりりと整った顔立ちを柔らかく歪めた。改めて凝視してみると、細かく計算し尽くされた“正しい美貌”という印象をナビは抱いた。服装は今日もスーツだ。
「ああ、久しぶりだな。変わらず元気にしてたか?」
「変わらず非常に不愉快な人ですね」
女は白々しく驚いたふりをして微笑んでいる。口調は相変わらず荒々しい。
ナビは右側だけの眉を釣り上げ、左側の眉を低く下ろして曇らせた。美少年だけが習得できる、複雑な意味合いを含んだ魅力的な仕草だ。
「通報しますよ、一年以下の懲役または百万円以下の罰金の準備をしておいてください」
「ナビくん、一週間ぶりに“偶然”また別の店で隣になったからってストーカー法違反とは冤罪がすぎるよ」
「偶然? あなた、わざわざ席を移動してきたでしょう」
エラーの話の途中で隣の席の客が入れ替わる瞬間があった。
それ以前に入店してすぐ、ナビはすでにハンバーガーを頬張っていた社会人美女の姿を見逃さなかったのだ。
「さすがの洞察力、お見事」
「ファストフード店で席を移すのが珍しいうえ、他にも空席があるのに中途半端な顔見知りの隣を意図的に選ぶなんて気持ち悪いです」
「なぜ私の意図だと決めつける?」
「あなたは完食したセットメニューを片付けた後、改めてコーヒーを購入してわざわざ新たな客としてこの席に来ました。過失でそんなことしますか?」
女は自分が責められているにもかかわらず、頬の緩みが止められなかった。急激に吸い寄せられるように彼が欲しくなって、気を抜けば喉から出てきそうな手をごくりと飲み込んだ。
「ところでナビくんって、ちゃんと同世代の友達がいるんだな。オジサン相手にしてるだけの放課後じゃなくて安心したよ」
「だったらなんですか?」
「きみは先日、おそらく食い扶持を一つ失っただろう。私のところでアルバイトしないか?」
ナビは「あ」とも「は」とも表せない短い奇声を発して、そのまま絶句した。
出会って二度目の得体の知れない歳上の女に勧誘されている。これだから美女は怪しくてかなわない。
「1ヶ月の短期バイトだ。オマエにしかできない仕事がある」
飲み込めないナビを置いてけぼりにして、と女はレシートとペンを取り出して何やら書きながら語り出した。
「私は国内出張とリモートワークと国外出張の三本線を反復横跳びする労働中毒者だ」
「はあ、」
「そのため、ポケットマネーで不当なアルバイトを雇える程度には貯金がある」
そのレシートが、ナビのテーブルにすっと置かれる。
「気が向いたらこの住所まで来ればいい。私の自宅だ」
コーヒー1杯分のレシートの裏に走り書きされたのは、ここから二駅先の住所。ナビは裏返った蝉をひっくり返すように恐る恐るそれをつまみ上げた。
「ちなみに給料は一ヶ月で30」
「単位は億ですね?」
「万」
「では、ドル?」
「円」
「学生のバイト代にしてはお高いけれど、業務内容を聞かずに即決するには安いですね」
「交渉可能だよ。では今宵、待ってるから」
ナビの目には、ナゲットをトレイに乗せたエラーがこちらに向かってくるのが見えている。タイムリミットが迫ってきたので、最後に早口で聞き質した。
「あなたのお名前は?」
興味があったわけではなく、知り合いになったのに名前を知らないのは不都合だと感じたからだ。
そもそも相手ばかりがナビの情報を勝手に入手しており、ナビは彼女のことを何も知らない。貿易だったら赤字。
「お?興味があるのか」
「いや、です」
「キラ。吉に良いで吉良だ」
コーヒーを飲み干したキラが席を立つと同時に、入れ替わるようにエラーが席へと戻ってきた。
住所が書かれたレシートを財布の中にしまい、相変わらずの落ち着きで友人を迎える。
「おかえり」
エラーは席に着きながらなにげなく尋ねる。
「さっき、隣の席の超綺麗な女の人に声かけられてなかった? やっぱ美少年ってすごいな」
「ううん、ナンパじゃないと思う」
「じゃあ、またスカウト?」
「そんなかんじ」
正確には怪しいアルバイトのスカウトなのでエラーは誤解しているが、詳細を説明できる自信がないのでナビはお茶を濁すことにした。
「俺がナビのルックスだったら、絶対アイドル目指したのになー」
「エラーくんが好きなの、女子ドルじゃん」
「だから、おまえの顔で女子ドル目指すんだよ」
「俺は、かわいいアイドルを応援することを生き甲斐とする限界オタクだ」
「そうだね」
「つまりナビがアイドル活動をしていないことは世界の損失といっても過言ではない」
「エラーくんの世界ね」
ナゲットの手を止めてまで宣言することではない。
「そもそも無類の童顔好きである俺は、ナビの顔がかなり好みだ」
「きも」
「女顔が学ラン着てるだけで萌えてる」
「きっも」
エラーが勝手に脳内のナビにアイドル衣装を着せてみると、よく似合っていた。そういえばナビには、エラーが初めて熱と金を注いで応援した地下アイドルの面影がある。
「俺がきらきら笑顔を振りまいて歌って踊れるとでも思うの」
「まあ、思わないけど見てみたいよね」
至極真剣に相槌を打つ友人が可笑しくて、ナビはおねだり上手な悪女みたいに小首を傾げた。
「いくらまで払う?」
「俺が選んだ曲を全力で生パフォーマンスしてくれるならカラオケでも二万払うし、撮影させてくれたら五万払う」
「ええ、そんなに?」
「失った初恋を思い出すにはむしろ安いよ」
追求するのは気が引けて、ナビは唇を結んだ。うん?初恋?
◾️
指定された住所を地図アプリで検索する。
辿り着いたのは駅前の一等地、目の前にはホテルみたいに綺麗なマンション。夜空には三日月。訪れた先はキラの自宅だ。
「実際に来るとは思わなかったな。さてはオマエ、アホなのか?」
そして、のこのこやってきた間抜けな事実を心の奥底から後悔していた。
玄関のドアを内側から開けたキラは、自らスカウトしたナビが足を運んできてくれたことを喜ぶどころかむしろひどく呆れている。
「集金です。三十億円、回収しにきました」
「寒かったろうに、早くあがりなさい」
「あー、知らない女の人の家にあがるのはちょっと」
「品行方正ぶるなよ少年」
躊躇するナビに痺れを切らしたキラが彼の細腰をぐっと引き寄せてドアの内側に引き入れた。男前な女だ。
さすがに言葉を息と一緒に飲み込んだナビは、ぱちくりと長い睫毛で瞬きして至近距離のキラを見据える。それに応えるように、彼女は溜息みたいな声を吐いた。
「いいから、ここまで来たなら腹を括れよ。取って食ったりしないから」
諦めたナビはローファーを脱いで部屋にあがった。脱いだ靴をきっちり揃えると、完璧主義のキラが満足げに頷いているのが見えた。やれやれ。
「いいところに住んでますね」
「社会人だからね」
リビングに通され、促されたソファに腰をおろす。素性の知れない女の家、座り心地の良いソファは不気味に感じる。
ナビ流の社交辞令でもあったのだが、キラは的外れな返事をしながらローテーブルに二つのマグカップを置いた。見た目と香りからしてアップルティーらしいけど、信頼できないのでナビは手をつけなかった。
「僕ってなんのために30万円で雇われるんですか」
「五年前の自殺の真相を突き止めるため」
「自殺の真相?」
「そう、詳しいことは後で話す。オマエが契約を決めてからね」
キラはテレビにリモコンを向けて電源をつけながら、受け流すようにさらりと答えていく。
「後で?労基に引っかかりますよ」
「私は、きみがオジサンにご馳走してもらって食い繋いでる事実も握っているが?」
気を抜くと揺すりそうになる落ち着かない膝を両手で押さえながら、ナビは漠然と理解した。この人、苦手だ。
テレビではグルメ番組が放送されており、人気急上昇中の若手俳優が映っている。不遇が続いたが役者としての下積みを重ね、その誠実な姿勢が実を結び、端正な容姿も相まって今最も勢いのある俳優だ。
ナビはぐるりと辺りを見回した。部屋や椅子の数からして、キラの一人暮らしとは考えにくい。 実際、このマンションの一室は、キラが幼馴染とルームシェアをしているものである。
「もうすぐ同居人が帰ってくるから、くつろいでな」
椅子に浅く足を組んで腰掛け、優雅に硝子のカップを傾けているキラが言った。
ころんとサイコロを振るような話し方は一度目のコーヒーショップとも数時間前のファストフード店とも異なるもので、雲よりも掴めない人である。空気だ。空気みたいな人。悪い意味で。
全身の毛を逆立てた猫状態のナビはソファにお行儀よく座りながら、花びらのような赤い唇を三角形に尖らせた。
「ゆっくり? 名前しか知らない女性の家で?」
「名前以外に知りたいことあるのか?」
「あると言ったら迷惑ですか?」
それはキラが想像するよりも遥かに素直かつ謙虚な答えだったので、意表を突かれて彼は紅茶を吹き出してしまった。
「迷惑じゃないよ、なんでも聞きな」
次に自然と出てきた声は自分が知るなかで最も柔らかな手触りだったので、キラは唇の端に苦笑を漏らした。いま、自分はクソガキに翻弄されている。それが悔しくない、むしろ愉しい。
「僕は、あなたのことを何と呼べばいいですか?」
「んー、雇用主?」
「それでいいならいいですけど」
どうでもよさそうに返すナビが癪に触ったのか、キラはぐんと距離を詰めてきた。さすがのナビも狼狽える。
「ナビだけの呼び名がいい、とくべつにして」
堅そうなシャツの襟元から覗く白い首筋がナビの視界を占領して、清潔な薔薇の香りに眩暈がする。大人の女性の色香なんかに惑わされないぞ、と脈を落ち着かせようとした。
「キラーさん」
それは音にしてみると、文字よりもしっくり嵌った。好感触。ナビの満足げな表情に、キラは包み込むようにくすっと笑う。
「殺人者って意味?」
「よく呼ばれます?」
「いや、初めてだから気に入った」
「っ、」
あっぶねー。危うく彼女に飲み込まれるところだった。
彼はつけっぱなしのテレビのほうに顔を向けた。退屈な番組だが、うっかり襲いかかるよりはマシだ。ナビが部屋にあがるのを躊躇したのは取って食われる心配ではなく、食ってしまう心配をしたからだ。
すると、キラが不思議そうに見当違いな水をさしてくる。
「ユキ、好き?」
「いや、普通です」
「私は嫌いなタイプの男だ」
「へえ」
本名か芸名か知らないがこの俳優は白雪という名前で活動しており、ユキの愛称で親しまれている。
「なぜ、嫌いなんですか?女性人気がすごいって聞きますけど」
「うーん、妙に胡散臭いだろう」
「キラーさんも胡散臭いけどな」とこぼしそうになる寸前で「やほーただいまー」という陽気な声が玄関のほうから聞こえてきたのでナビは思わず口を閉じた。
少し経ってリビングのドアが開くとゆるふわな雰囲気の巨乳美女が立っており、ぽかんとしているナビを見つけると一目散に駆け寄ってきた。
「わ〜!かわいい〜!」
「ぐえ」
「いい匂いもする〜!食べちゃいたい〜!」
座ったまま腕を引かれ強制的に引き寄せられたかと思えば、ぎゅうっと力強く抱き締められた。柔らかな乳に窒息しかけたナビは痩せた鳥みたいな声をあげた。
目線で訴えると、キラが助け舟を出してくれる。
「フワリ、ここで人を殺すな」
ここで?!よそならいいの?!はくはくと口を開け閉めして訴えるナビをよそに、加害者のくせに悪びれる様子もないフワリは、大袈裟に肩で息をするナビの背中をあやしだした。
「あ、ごめんね?よしよし、息吸える?」
「ぐるしかったデス」
「いっしょに深呼吸しよ?はい、すって〜はいて〜」
すう〜はあ〜と指令通りに深呼吸をしてから、ナビは率直に尋ねる。
「どなたですか」
もともと大きな瞳をさらに大きく見開いたナビに見つめられ、さすがのマイペースなフワリも一瞬だけきょとんとしたが、すぐに笑みを浮かべて挨拶した。
「はじめまして、フワリです。キラの同居人で歯科医をやってます。26歳です、よろしくねえ」
どちらも美女には違いないが、角ばった印象のキラに対してフワリは丸くて柔らかそうに思われる。
「僕はナビです。17歳の高校生です」
「わか〜い!私と同世代だねえ」
「あはは」
キラとは別の角度で絡みづらい人である。
「ナビ、騙されるなよ」
「騙される?」
フワリのぶんの紅茶を淹れるために席を立ったキラは、ほとんど溜息みたいな声で忠告してきた。
「そいつがふわふわしてるのは外面だけで腹の底は真っ黒だから。この世で甘ったるい話は全て罠だと用心しなさい」
「罠?」
破格のアルバイト、これ以上に甘い罠などあるだろうか。最低額の30万だって高校生にとってはかなりおいしいのだが。
「そうやってキラーさんはフワリさんのまわりに現れる男に毎回忠告してるんですか?お二人ってどういう関係?」
むしろ、いつになく口煩いキラのほうが気になった。恋人のそばにいると不愉快な、恋人の異性の友人みたいだ。ナビが非難の目を向けると、キラは早口で捲し立てるように弁解した。
「ルームシェアしてるただの幼馴染。生活能力が皆無のフワリと、その面倒を見ている立派な私」
「人間嫌いすぎて他人と積極的に関わろうとしないキラと、その面倒を見ている社交的な私」
キラの弁解をさらに弁解するかのように、フワリが追い掛ける。これで二人の関係性が何となくわかったので、「なるほど」とナビは頷いた。
そして、もう一つの誤解を解きたかったキラは整った平行眉を顰め、低い声で付け加える。
「あと、私は毎回忠告するほどお人好しじゃない」
今度はフワリが「なるほど」と頷く番だったが、彼女は深く言及せずに「ねえねえナビくん」と話しかけてきた。
「頭、なでなでしてもい〜い?」
「いいですよ」
「ふふ、なでなで」
フワリの手がナビの小さな頭をまあるく撫でる。満足げな彼女の顔を下から見つめた。
「ナビくん、私の妹に似てるんだあ」
「へえ、妹さん」
「そう、5年前に死んじゃったんだけどね」
フワリは柔らかく微笑んだ。キラは淹れたての紅茶を運んでいた。
「フワリの妹は、18歳のときに自殺したんだ」
流れているだけの無意味なテレビでは、先ほどの人気俳優が主演映画の番宣をしていた。
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