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迷わぬ羊#7 「ひつじが七匹」

 健全な時刻、よる10時。人工の光で照らされた夜道を、私と松葉さんは並んで歩いていた。

「松葉さん、駅まで歩きましょうか」
「だね、お腹いっぱいだし」

「名前のわからない料理ばっかりでしたね」
「おいしかったって言えばいいのよ」
「薄い味が、こう、重ね着してましたよね?イタリアンなのに、口のなかでお雛様の十二単を思い出しました」
「ぐちゃぐちゃうるせー」

「浮かれて、お料理の写真まで撮っちゃいましたね」
「それは、かわいい」

「あんま、おしゃれな店とか行かねえの?意外」
「OLなのに、って思いましたか?」
「コヒツジは、そう言われるの嫌いだろうなって思った」

「でも、おしゃれなお店もよいものですね」
「いいよね、また行く?」
「松葉さんと?」
「もちろんサシでな」

「行きません」
「あーそ、ざんねん」

 ちなみにお会計は松葉さんがおおめに払ってくれて、私もちょっとだけお金を出した。「俺の方が食べた量が多いから」という理由は、いかにも彼らしい。

 それに甘えることにして、私は控えめに財布を開けた。お金を多めに払ってくれたぶん、彼が楽しんでくれているとよいなと思う。

「てか、あそこ歩いてるの、ネロちゃんじゃね?」

 松葉さんが指さした数メートル先には、たしかに見慣れた後ろ姿があった。紺色のスーツに合わせたリュックがとてもよい。

 会社からほど近い大通りなので、彼がいるのは意外じゃない。意外だったのは、彼がひとりでいたことだ。

 ふうん、羽野さんと一緒じゃないみたい。ふうん。

 私たちの熱視線に勘づいたのか、そこそこ人通りのあるところなのに、道枝くんは立ち止まって振り返った。鋭すぎる。

「あ、こっち向いた」
「しかもちょっと睨んでますね」
「あえて無視する?」
「そうやって、部下をいじめてるんですか」

 などと話しながら、止まったままの道枝くんに歩み寄っていく。

 ひとりぶんを開けた適切な距離。だけど完璧に私の歩幅に合わせられたスピードが憎たらしい。松葉さんは脚が長いし、ひとりのときは歩くのがめちゃくちゃ速いってことを私は偶然知っていた。

 社外で道枝くんに会うと、なんだか金曜日の気分になる。夜と道枝くんは、相性が良い。

 お互い立ってる状態で会うのが久しぶりに感じて、道枝くんってこんなに背が高かったのか、とか、どうでもいい感想を抱いた。

 私たちを待っていたくせに、こちらが近くに寄ってしまえば迷惑そうに眉を顰める。月の光を吸収してるみたいに、つるんとした白い肌が輝いて見えた。

 お疲れ様ですと定型文の挨拶をして、すぐに松葉さんはお遊びモードのスイッチを入れる。

「ねーろ」
「寝ません」
「あかあおきいろ」
「みちえだねいろ」

 酔ったふりをした松葉さんが親しげに道枝くんの肩を抱いて、だるい上司の絡みをしていた。それをすぐそばで、ぼんやりと見つめている。

 どちらともそれなりに親しい自負があったので、もっと仲の良いところを見せつけられるとなんだかくやしい。ちょっと酔ってるせいもあって、風船みたいに感情が膨らんだり萎んだりする。

 どうしてこんなにも、他人と自分を比べちゃうんだろう。自分の好きじゃない部分が目立つせいで、よけいに落ち込む。

「こーばやしさん?お疲れ様です?」

 それにどうしてこんなにも、きみはかわいいのか。私が弱っているのを見逃すことなく、わざと、わかりきった自分のかわいさを存分に発揮して下から覗き込んできた。

 お疲れ様です、なんて、廃れることなく永遠に流行り続けているありきたりな挨拶なのに。天使が口にすると、それがまるで「お疲れなんですか?だいじょうぶ?よくがんばったね?」と心を配ってくれているように聞こえるから不思議なものだ。

 彼自身も同じように疲れているはずなのに、柔和な微笑は天使の粉をきらきら纏っている。思わず目を細めてしまうと、くすくすとやさしい笑い声が降ってきた」

「小林さん、ほんのり酔ってるんですね」
「酔ってない、こともない、という気分です」
「それは、いちばんの良い心地です」

 松葉さんに肩を組まれたまま、道枝くんが話している。まるで、ここ最近の気まずい距離感みたいなものが一切なかったかのようで、こちらの感情をどう処理すればいいのか分からない。

「わるくない、夜でした」

 だから、そうとだけ、答えてみた。今夜のことと、こないだの金曜日のこと。

 ぜんぶを言って、ぜんぶを伝えるのってナンセンスだ。私の言葉の端っこだけを捕まえて、私の心の中心部だけを見つけてくれたら、それでよい。

「嫌いなものだらけの小林さんが、わるくないって言うんですね」
「わるくないと思ったから言ったまでですが」
「あなたの言う〝わるくない〟は〝さいこう〟と同義語です」

 少しだけ棘を含んだ物言いが、道枝くんらしくて笑ってしまう。桜色のくちびるは、私のためだけにひとつひとつの言葉を選んでくれる。

 よいなあ、と心の中でつぶやいた。とっさに言語化できないものは、きっと、言葉にする必要がないものだ。よいなあ、という温かくて柔らかい気持ちだけがここにある。

「ねーねー、なんで俺のこと置き去りにしてふたりでお喋りするのー」
「ははは」
「おいこら、乾いた笑いするな」

 松葉さんと道枝くんの会話を、頭の遠くで聞いている。予期せず道枝くんと会えたことで浮かれそうになるじぶんを、お腹の底に沈み込ませた。

 うれしいとか思っちゃうほど、単純な私ではない。むしろ、会いたくなかったような気もする。気分がふわふわと明るくなったのは、酔いのせいにしておこう。うれしいってそういうことだよ、と冷静な私が言ってくるけど聞こえないふりをした。

 なんとなく営業部のふたりが前を並んで歩き、私はそのすぐ後ろをついて歩くことになった。駅までの道のりは10分もないので、このまま辿り着くだろう。

「ネロちゃん、なに食べてきたの」
「赤い肉と赤い酒です」
「は?ヒトでも食った?」
「あんまりグルメじゃないんですよ僕」

 それにしても、〝だれと〟じゃなくて〝なにを〟と訊くのが松葉さんというひとだ。「どこを開けても応接間」と彼の性格を揶揄したことがあるけれど、そういうのもわるくない、今夜ならそう思える。

 好きなものが増えていくと、同時に嫌いなものも増えていく。じぶんの好みでモノを選べるようになったばかりの、思春期の私はまさにそうだった。

 それから大人になるにつれて、好きなものが少なくなり、嫌いなものがたくさんになっていった。嫌いなほうが格好いいし、こちらが先に嫌っておくことで向こうからのお断りも平気だと見せかけられる。弱いじぶんを、そうやって守ってきたのだ。

 実際、だれかに嫌われたり、なにかと相性が悪くても、じぶんひとりの視点でいうとけっこう平気で居られたりする。耐えられないのは、相手にノーサンキューされてる小林羊を客観視されるその状況なのだ。他人の目線って、ほんと、攻撃力が高すぎる。私のような、特技は自意識過剰で趣味は被害妄想みたいな下等生物にとって、「かわいそうだね」なんて言い渡されることは死刑宣告も同然である。

「とりあえずヒト食ったことについては否定してよ」
「でも、おいしかったですよ?こんど松葉さんもいっしょに行きましょう」
「でも?でもって何?こわすぎこの子」

 男の人が嫌いだと言うじぶんは、楽な方法でずるをしている。人間の半分を原因も解明せず勝手に嫌っておけるなんて、なんて都合がよろしいことか。

 本当に異性を苦手とする人はもちろん存在して、それぞれのきっかけやそうならざるを得ない背景があったりするだろう。そういった人々の深い苦しみと、私のご都合主義なくるしみはまったくもって異なるものだ。

 私の場合は、ただ、じぶんを甘やかしたいだけ。恋愛とか結婚とか、いや、日常生活での人付き合いにおいても、うまくやれない言い訳がほしいだけだった。

「まあ、実際はワインバルなんですけどね。羽野さんと行ってきましたよ」
「羽野さん?経理部の?」
「そうです。めちゃ酒豪だから、もう一軒ひとりで寄って行くって言ってましたので、そこらへんにいると思います」
「、、、ネロちゃん、」
「みなまでいうな、松葉さん」

 道枝くんはほっそりした人差し指を自分のくちびるに寄せて、しい、と空気を吐き出した。なるほど、と私と松葉さんが共に頷く。もう一件どうですか?のお誘いを華麗に交わしたせいで、彼がここにいるのだと察しがつく。

 ふたり、なんにもなかったんだ。ふうん。なーんだ、ただ飲みに行っただけね。それなら、まあ、ふうんってかんじ。
 
 すんと澄ました顔をしているけど、私ひとりのなかで張り詰めていた空気がしゅるしゅるとリボンのように解けていった。道枝くんと羽野さんのことを、気にしてなかったといえば真っ赤な嘘になる。

 ロマンスとかじゃなくて、単純に嫌だ。私といるときより会話が弾んだりしたら嫌だし、ていうか、どう考えても私より羽野さんのほうが万人に受けるユーモアを持っているし、隙があってかわいいし、しかもふつうに賢かったりするし。

 だから、ほとんどの成人男性が、私よりも羽野さんを選ぶと思う。それが当然の結果だし、ちょっと気に食わないところはあるけど、まあ、仕方ないから受け止める。
 
 だけどね、道枝くん。きみだけは。彼くらいは、私のことを選んでくれてもよいじゃないか。かわいい女の子とのワインバルじゃなくて、私との安い居酒屋を好んでくれてもよいじゃないか。

 それだけで、だめなじぶんが救われる。道枝くんが、ありのままの私を受け入れてくれること。それだけで、世界がやさしい色になる。

 、、、、うん?まって?なんか、恥ずかしいこと言ってない?

 これまでの私は、愛で世界を救う!みたいな思想をだいぶばかにしてたけど、もしかして、いま、それ思っちゃってるんじゃない?道枝くんの愛とやらで、私の世界が救われてあげてもいいよ、みたいな。いわゆる〝イイひと〟になろうとしちゃってるんじゃないの。

 あーもう、最悪すぎて最高だ。変化なんて大嫌いだけど、いまの私ならそれさえも「まあ、いっか」で片付けることができるらしい。

「そいえば契約の───あ、これから仕事の話してもいい?」
「いやです、明日にしてください」
「おいおい、うちはお役所じゃないのだが?」
「あら、ちょうどよかったです。僕ね、いちど上司をパワハラで訴えてみたかったんですよ」
「うちの部下、サイコパスかよ〜」

 前列のふたりだけで編まれていく会話にも嫌気がささず、たまに笑ったりして相槌を打った。じぶんに、こんな朗らかな側面があったなんて知らなかった。知らなかったけど、案外すんなりと受け入れることができた。

 羽野さんが最近の私を「可愛らしいかんじがする」と表現したのは、こういうところをしっかり見抜いたせいだろうか。

 抱きしめた棘を手放せるほど、まだ大人にはなりきれない。でも、むりに好きなものを増やしたりしなくても、嫌いなものがだんだん減っていくのかもしれない。

 大人の階段って息切れしながら一段ずつ昇っていくようなものじゃなくて、エレベーターで一階分をいっきに上がっちゃうものなのかもしれない。

「松葉さんたちは何食べたんですか」
「ん?イタリアンだよ、恐竜のかたちのパスタが出てきた」
「羊が恐竜を食べる時代なんですね」

 鈍感になっているのか、それとも、ふたりが特別なのか。この空間の何もかもが嫌じゃなくて、むしろ、なんだこれ、すごくうれしくて泣きたくなった。

「まったくきみってやつは、最高だよ」

 上司が褒め称えるようにして、力強い握手をかわしていた。傍目から見れば、あと、ここが駅前の歩道でなければ、難しい商談がまとまったようにも見えなくない。

 ふざけた会話のくせに、相手を全肯定するふたりの関係性が垣間見える。なんなんだ、このふたりは。やっぱり、うらやましいかもしれない。ゆるやかな酔い加減。ぬるい風。駅前の人工的な眩しさと、やさしい月明かり。お気に入りのパンプス。あしたは仕事、でも金曜日だし、まあいいか。

 なんだろう。ほんとうに、わるくない。

 ぜったいに手が届かないような、煌びやかな理想を掲げるほど夢みがちの乙女じゃなくて。誰から見てもちょっとだけいい人生、私が欲しているのはそんなものだ。

 例えるなら、それはコンビニの冷凍庫でちょっと高級な300円のアイスクリーム。2500円とかしちゃう、ホテルのレストランで出てくるデザートじゃない。たまに欲しくなって手を伸ばしちゃうスペシャル感。それだと、思うのだけど。

 ああ、例えはやっぱり下手くそだった。でも、そんな自分さえも許せてしまう。なんだか、ぜんぶがうまくいく。そんな気がする、やさしい夜だ。

 私と松葉さんは同じ電車に乗るのだけど、道枝くんだけは別の路線を使っているので先にお別れすることになる。

 それがちょっと不服そうで「僕も遠回りして、そっちの電車で帰ろうかな」と道枝くんがくちびるをつんと尖らせた。彼はすべての仕草をかわいくやらないと、しんでしまう病気なのだろうか。

「小林さんとふたりっきりなの、ずるいです」

 駅に着いてしまった道枝くんがそんなことを言うせいで、松葉さんは相変わらず感情の読めない笑顔でふわふわと笑った。

「コヒツジは、俺と手ぇつないで帰ろうな〜」
「嫌です」
「今日も相変わらず、つれないねえ」

 電車が行ったり来たりする。騒音だらけのホームは、灰色ばっかりだ。夜の地下鉄に、いかにも会社員という風貌の私たちはよく馴染んでいると思う。

 道枝くんと別れるところになって、彼が私の名前を呼んだ。

「小林さん」
「はい」

 すぐ隣にいる松葉さんのことがまったく見えていないかのように、きれいな瞳は私だけをまっすぐに射抜いてくる。声が少しかすれていて、めずらしく、ほんのりと緊張しているように見えた。

「羊さん」
「は、はい」

 緊張が伝染する。まわりには大勢の人がいるのに、この瞬間だけは、ふたりだけの空間に移ったような気分になった。

「明日は、残業しないでください」
「それは、道枝くん次第なのでは?」
「僕は、させません」
「じゃあ、私もなるべくしません」
「定時にあがったら、会社のロビーで待ってます」
「そんな、目立つところで?」
「わざと、目立つのです」

 久しぶりに、呼吸のリズムが整っていくような気持ちになった。美少年と、ていうか、道枝くんとの会話でしか、正常にならない心拍数があるらしい。

「いつもの居酒屋で、ハイボールを飲みましょう」
「わかりました」

 擦り切れるほどありきたりなお誘いが、私たちにとってはこの世でいちばんロマンチックだ。そんなくだらない感覚をふたりで共有している、たったそれだけの事実を、私はずっと欲していた。

「小林さん」
「なんですか」
「あなたに話したいこと、たくさんあります」
「仕事のこと?」

 とくに深く考えもせずに訊ねると、道枝くんは呆れたように吹き出した。思わずこぼしちゃったような笑い声に、なぜか私までつられてしまう。だけど面白すぎることは起きていないと即座に気づいて、それから同時に笑うのをやめた。

 ふたりで真顔を見合わせたのが2秒、そのあと、また笑い合ってしまった。笑い終わるタイミングが合うというのは、私たちの呼吸が合っている証拠だ。合う合う尽くしで縁起がよい。

「あした、聞いてくれますか」
「わかりました」
「小林さん」
「はい、これが最後ね」
「さいきんますます可愛くなっていくから、僕はとっても心配です」
「私よりもかわいい道枝くんがそれを言う?」
「ええ?それなら僕のこと、はやく捕まえてくれていいんですよ」

 考えとく、と返そうとしたら、しびれを切らした松葉さんが「ほら、もう帰るよ」と会話をやんわり遮った。ぱちん、風船ガムが弾けたように、ふたりっきりの空気が小さく破裂した。よかった。あぶないところだった。

 空気を読むことにおいては右に出る者がいないでお馴染みの松葉さんが話を中断させるなんて、めったにないことだ。だけどさすが、いまのは良きタイミングであったと思う。

 そこに甘ったるい空気はもちろん無くて、またね、おやすみなさい、おつかれさまです、そんな挨拶を交わして、道枝くんは別の電車のほうに歩いていった。

 部下の道枝くんを見送った上司の私たちは、ふたりでとろとろ歩きながら温度の低い会話をする。

「あいつ、見せつけやがったな」
「見せつけ?」
「コヒツジと仲良しなところを、わざわざ俺に見せびらかしてきたの」
「そんなことします?」
「するする、ネロちゃんはそういう男だ」

 相変わらずふざけたような口調のままで、何を考えているのか分からない。松葉さんのことなんてどうせ分かるはずがないので、私は空いてそうな車両を探してみる。

 そこそこ混んでいるし、そこそこ空いている。座れる席はなさそうだけど、窮屈なほどではなさそうだ。けっきょく、松葉さんが乗り込んだ車両に、私も続けて乗り込んだ。

 こういうとき、同じ車両に乗って良いのか悩む。相手がじつはひとりになりたがっていたら、申し訳ないなあと思ってしまう。

「俺からも、コヒツジに訊いてもいい?」
「私に、答えられることでしたら」

 こちらの杞憂を包み込むように、食事中の私と代わって松葉さんのほうから話を振ってきた。ふたりとも吊り革を掴んで立ったまま、隣どうしに並んでいる。いろいろを気にしすぎる私にとっては、相手の表情を見なくて済むのがありがたい。

「ねえ、オマエさ、もう男の人だめじゃないの?」
「、、えっ、と、」
「むかしは、誰にも笑いかけたりしなかったじゃん。さいきん俺には笑ってくれるよなって、自惚れてたんだけど?」
「そ、うですね、」

 発車ベルが鳴って、電車が動き出す。がたん、と揺れたせいでバランスを崩し、肩どうしがぶつかった。とっさに、すみません、を口にした。

「あーごめん、嫌味じゃねえし、責めるつもりがあったわけでもないのよ。かんじわるい言い方したね、もうしわけない」

 それと、夜の窓ガラスに映る松葉さんが、困ったように笑っているのを見つけてしまった。さいあくだ、これ、表情みえるじゃん。

 私の降りる駅は松葉さんよりも手前にあって、各駅停車でたったの5駅。だからここでは、ぎゅっと濃縮された会話を選ぶことにした。

「松葉さん」
「うん?」
「私は、嫌いなものばっかりですよ」

 隣の吊り革を掴んだ彼の左手には、品の良い腕時計が回っている。センスがよいなあ、といつも感心させられる。華美な装飾などはなく、自分を主張しないところが松葉さんらしい。

 顔を見たくなかったので、その腕時計の針に視線を送ったりなどしながら、私はべらべらと御託を並べていった。

 きらいなもの、ばっかりだ。

「安っぽいことばかり囁いてきた安っぽい元カレも、松葉さんが手を回して退職させてくれたセクハラ上司も、計画性のない同僚も、凡ミスばっかりの同僚も、私に〝金遣い荒そう〟〝わがままそう〟とか偏見だけ壁打ちしてくる他部署の社員たちも、みんなみんな嫌いです」

 入社当時の私は、嫌なことをされても言われても、泣き寝入りするしかできなくて。それを、器用な松葉さんが代わりに対処してくれたことなんて、私の知る限りで3度はあるし、知らないところでも幾度となくあるのだろう。

 そういえば、めそめそと泣いている私に松葉さんが缶コーラを買ってくれたことがある。コーラは精神に直接効くらしい。ヤバイ薬かよ、と笑ってしまった。貰ったコーラは、その場で飲んだ。強い炭酸が喉を刺激してきたから、また、ちょっとだけ泣いてしまった。

 いまだに実際の効能はわからないけれど、彼をまねて、私も弱っている人にはコーラを渡してあげるようにしている。私たちの何かしらを救ってくれるコーラはまるで、松葉さんそのものだ。

「俺のことも、きらいでしょ?」
「はい、もちろん」
「即答するなよ」
「仕事もできるし誰からも愛されてるし、何でもできて器用なくせに、コヒツジの気持ちわかるよ、みたいな顔をする松葉さんはほんとうに嫌いです。松葉さんに、私の気持ちなんてわかるはずがない」

 嫌いなものを挙げていくだけで、一駅ぶんが過ぎてしまった。地下鉄の景色は変わらなくて、ずっと灰色。不変は、愛おしいな。安心する。

「だけどね、もう、いい大人ですから。世界を呪ってる場合じゃないんですよ」

 世界は、今日も不変である。いつも冷たくて、私に優しくもないし、理不尽だし、神様はたまに手を抜いたりする。変わったのは、私のほうだ。私がここまで来てしまった。

「俺ね、コヒツジのこと、まだ、どうせお子さまだってなめてたみたい」

 帰宅の電車で話すにしては重たい内容にも思えるけれど、雑音が多いこの場所がちょうどよかった。会話に集中しすぎず、お互いに寄り添い過ぎずにいられる。

 こちらは聞き流すようなふりをして顔を合わせることもないままで、松葉さんが話を続けた。

「入社したばっかりの時は、コヒツジって気も弱かったじゃん?だから俺、コヒツジって呼んでるし」
「できないことばっかりで、いつも泣いてましたね」
「この子クソ不器用じゃんって笑ったし、それに、かわいがってあげたいなあって、同期なのに妹みたいに大事にしてたの、気づいてた?」
「なめられてるなって思ってました」

 心のままに言葉を返すと、松葉さんは楽しそうに明るく笑う。わらってくれると、期待していた。

 私が彼に反抗的な態度をとるのなんて、向こうからすれば思春期の妹が不機嫌に言い返してくるようなもの。そんなものでよかったし、そんなものがよかったのだ。

 その間にもどんどん駅が進んでいって、ノスタルジックが加算されていく。タイムリミットが近づいてきた。

「でもいつのまにか、働くオマエは鉄壁ウーマンになっちゃって、泣かねえし隙もねえし仕事はできるし、ぜんぜんかわいくねーって思ったんだけど、」
「よけいなお世話です」
「話してみると、やっぱり中身はコヒツジのまんまで、さ、」

 そこで区切った松葉さんが、なにかを耐えるように息を吸って、くちびるをあまく噛んだ。こんな松葉さんを私は知らなくて、驚いてしまう。

「ああ、なにこれ、しんどいわ」
「しんどい?」
「もう、俺のこと、必要としてくれねえの?」

 はじめて、彼の本音が色を持ったようだった。どんな愛の告白よりも生々しくて、どんな傷を見せられるよりも痛々しい。漏らした溜息に深い感情が含まれていて、松葉さんが、ただの人間であると知った。

 彼もまた、ひとつ大人になったらしい。私たちは、いつまで発展途上なの。

「何を仰る、松葉さん。私はこれからも何度だって、松葉さんに助けてもらうつもりです」
「俺にできること、もうなくねえ?オマエ、じぶんでやれるだろ」
「松葉さんの価値って、役に立つ何かを提供してくれることだけじゃないですよ?そこにいてくれるだけで楽しいし、松葉さんのおかげで空気がおいしくなるんです」

 言葉の内訳は、ほとんどが本心。ほんのわずかに〝やさしさ〟っていう成分が含まれている。じぶんがそんな大人みたいなまねをしたことに嫌悪感を抱いてしまい、「まあ、けっきょく嫌いですけどね」と帳消しにする魔法を付け加えた。

 車内アナウンスが、私の降りる駅名を呼ぶ。ここでおります、と目で合図を送ると、松葉さんは受け取るように頷いた。それから、ゆっくりと口をひらいた。

「これからのコヒツジは数えるたびに、嫌いなものが減っていくかもしれないけどさ、」

 停車のために地下鉄特有の騒音が大きくなる。だけど、落ち着いた松葉さんの声だけは、なぜかクリアに耳に届いた。

 いつも、松葉さんの言葉は完成された形に整えられている。だけど、だからこそ、思っていたのだ。このひとは、まだ、私のために言葉を使ってくれたことがないって。誰かに話したことを、また同じテンションで私にも話してくれるけど、それはきっと、私だけに選んでくれた言葉じゃない。

 世渡り上手がわるいとは言わないが、たまには、不器用さも見せてほしい。でないと、一方通行みたいでさみしくなる。何度も、さみしくなってきた。

「俺のことだけは、一生きらいって言い続けてよ」

だから、今夜は記念日だ。松葉さんが、私のためだけの言葉を使ってくれている。さみしくならずにすむ、夜だ。

 いつになく自分本位な松葉さんのお願いごとに、別れ際のふたりで笑い合ってしまった。しょうもないね。あなたも、だれかの唯一になりたい愚か者のひとりだだったのか。

 話が途切れたタイミングで、ドアが開いた。降りなきゃいけないので、吊り革から手を離す。

 一生、きらいって言い続けること。わざと、約束はしなかった。それどころか、肯定も否定もせずに「では、また」と冷ややかな挨拶をした。

 ああ、伴うのは心地よい疲労感。永すぎた、木曜日の夜だった。

 ひとりで歩く短い夜道。私は、すこしの過去を思い出していた。

「まーた泣いてんの、23歳のコヒツジちゃんよ」
「人生百年の時代です、23歳なんて生まれたても同然でしょう」
「めそめそしてたやつが、偉そうに論破するな」

「まつばさん」
「おん?」

「私、じぶんが嫌いになりそうです」
「ふは、同期のよしみでいいこと教えてあげようか」
「え?」

「きらいなものはきらいでいい。手元に残った好きなものだけ、とびきり大事にしていればいいのよ」

 

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