迷わぬ羊#6 「ひつじが六匹」
外回りの営業から戻ってきたとき、遠くに小林さんの姿を見つけた。
大きめなサイズのジャケットは袖が無造作に捲られていて、細い手首と華奢な腕時計が覗いている。男らしいのに女っぽい、大胆そうに見えて繊細に計算し尽くされている。ファッションのひとつをもってしても、小林羊という人間がよく反映されていた。
こちらに気づくこともなく、早足で離れていく。思わず振り返って二度見してしまう美人なのに、だれも視線は合わせようとしないのがおもしろい。小林さんは「ねえ、怒ってる?」と思われがちの、損なタイプだ。
よいなあ、と心の中で呟いてみる。
彼女に向ける感情の引き出しのいちばん手前には、「よいなあ」が置かれている。小動物を保護したくなるような「いとおしいなあ」とも、性的な魅力としての「そそるなあ」とも微妙に違う気がする。
いや、正直それらも、あるにはあるのだけど。シンプルに、よいなあ、と思うのだ。
因数分解された好意は、純粋な愛そのものかもしれない。賢い打算も存在せず、まっすぐに惹かれている。
むしろ、小林さんに関することとなると、自分の知能指数は急降下する。その落ち方は、大人しか乗れないジェットコースター並みだ。株価に置き換えたら泣くに泣けない急下落だ。なんだかややこしい例えをしてしまった。まさにちょうど、ばかになってる。
先のことが冷静に考えられなくなって、目の前のあなたに酔ってしまって、好かれたくて、嫌われたくなくて、でも、いまこの瞬間そばにいてくれるなら、それで良くて。
間違いで過ごしちゃう夜があるなら、もっと間違えて、そのまま俺に堕ちちゃえよ。
愛とはつねに優勝です。たしかに存在したはずの金曜日の記憶が、不自然なほどに曖昧だ。俺は、保存がうまくいかない貴重なメモリーを何度も大切になぞっていた。
金曜と土曜の、粗い縫い目。そんな夜の中間地点。
布団のなかで瞼を閉じたまま、ひとりぶんの温度が逃げていくのを感じていた。引き止めるために伸びる腕も、言葉も持たない。
耳をすまして小さな物音を拾いながら、彼女の動作を想像する。至近距離で、自分の寝顔が注視されているような気がした。彼女の息遣いが近くにあるせいで、心臓が高鳴るのを嘘の寝息で隠そうとした。
小林さんは、俺の顔が好きらしい。比較的好まれやすい顔立ちだと自覚しているものの自分では癖のない女顔にしか思えないので、ふうん、こういうのが好きなんだ、と嬉しくなる。
好きな人の好きなものってだけで興味深くて、知ったら嬉しくなるものなのに、その対象が自分の持ち物だなんてツイてるとしか言いようがない。顔を持ちものといってよいのかわからないけど。
それから、服を着る、なんとなくそこらへんを見回す。おそらく、転がったゲーム機なんかを見つけて「へえ、道枝くんってゲームするんだ」くらいのことを考えているのだろう。するよ。
布団の中で狸寝入りを続けたまま、小林さんの行動を想像していた。
自分の家に、彼女がいることが不思議だ。小林さんが実際どんな家に住んでいるのか知らないけれど、少なくとも、こんな、いかにも独身男性の一人暮らしワンルームとは不似合いである。
過剰な自意識に飼い殺されたような人なので、誰のことも招かないくせに、誰に見られても「小林さんっぽい」という感想を抱かれそうな部屋に住んでいると勝手に予想する。
普段使っているアクセサリーをきちんと飾って〝見せる収納〟やってそう。けっきょく貴金属のものばかり身につけてしまうのに、色鮮やかなビーズや布地のイヤリングをインテリアとして購入していそう。
へんにこだわりのあるデザイナーのマグカップなんかを使っていて、「お酒もこれで飲んじゃうのよね」とか言いそう。うわあ、なにその面倒臭さ。最高じゃん。
それから間も無くして玄関のドアを閉まる音がした途端に、部屋と脳裏が冷えていった。せめて余韻くらいは置いていけよ、と声にならない声が言う。
溶けて消えた夜の熱を、追いかけるように再生する。
恥じらうような上目遣い、その瞳が潤んでいたのを見つけたとき、自分の底に沈めておいたはずの性的嗜好がうっかり上がってきそうになった。意中と相手との初めてとなれば、さすがにお呼びじゃないってば。
ああ、どうしよう。やみつきになる、最高の夜だった。
ゆっくりと満たされていくような、それと同時にますます枯渇していくような感覚がきもちよかった。
不慣れそうな仕草が、どうしようもなくかわいいと思った。だけど年相応に無垢ではないことは明らかで、そのたびに彼女の背景が脳裏にちらついて、やっぱり大人はかわいくないと思った。
表情、声、感度、彼女のすべてを覚えておきたいのに、興奮した脳みそは点滅していて、焦らないように、落ち着いてみせるのに精一杯の夜だった。
俺からの愛は、余すことなく伝えたつもりだ。天邪鬼な彼女がそのまま受け取ってくれるとは思えないので、溢れるほどまで流し込む。ひとりよがりになってないかな?俺ばっかり、よくなってない?ねえ、おなじくらい、溺れてる?
からだを重ねるのと、こころを重ねるのって、どちらが難しいのだろう。ふたりぶんを熱を閉じ込めた布団は、蒸されたような湿度が甘い。
どうせ解ける魔法と知りながら、永遠に抱き合っていられると錯覚していた。少なくとも、彼女が玄関を閉めるまで、ヒールがわずかな音を鳴らすまでは、永遠を信じていたのだ。
それから我に返ってまず、冷静な自分が嘲笑う。どうやら、身体だけ重ねていいかんじの夢だけ見せられて、あっさり捨てられたらしい。
低俗な言い方をするならば、ヤリ逃げされているっぽい。
とりあえず落ち込んだので、膝を抱えて布団の中でうずくまる。ほんのりと残る小林さんの香水だけが置き土産なので、深い呼吸で吸い込んでみた。なんか、よけいに虚しいわ。
金曜日の自分を反省しようと試みる。とはいえ、酔った女性を自宅に連れ込んだという事実はあれど、その根底にあるのは紛れもない愛だ。うまく丸め込めばこのまま恋人にまで持ち込めるのでは?などという浅はかな打算は無きにしも非ずだが、それは歪んだ犯行動機じゃない。
前述した通り小林さんは、おそろしく面倒な人なので、こちらが完璧にお膳立てしないといけないのだ。会社の後輩に抱かれるなんて、百の理由を並べてもまだ足りない。わたしは何も悪くない、悪いのは男のほう。それを納得するまで自分に言い聞かせて、彼女はやっとパンプスを脱ぐことができる。
かわいくて笑っちゃうね、どうしてこうも不器用なのか。小林羊の綺麗な容姿は、過剰な自意識に塗り固められている。
しかし、自意識過剰な人に対して「そんなに気にするほど、他者はあなたを見てないよ」と言うことはあまりにも無粋だ。高所恐怖症の人に向かって「観覧車のろうよ?ぜったい落ちないから大丈夫」と言うのと同罪。大人の苦手をこちらの都合で無理に克服させようとするのは、人権侵害にあたると聞いたことがある。ような気がする。
だから俺は、小林さんの悪癖を知りながらも、それでいいよと受けいれてあげたいし、そういう存在になりたいと思っているのだ。
ありのままを受け入れてくれるひとなんて、たったひとりでじゅうぶんでしょう。こちらだって、あなたにとっての〝たったひとり〟になれるなら、見返りはそれでじゅうぶんだ。
なるほど、俺は反省するのが下手らしい。自分の非をすんなり飲み込めるほどえらくないし、ていうか、これを失敗と認めるにはまだ早い。
認めたら、もう、小林さんとの金曜日は迎えられないような気がする。けっきょく過去の反省は不成功におわったので、今後の計画を立て直す方向に転換を決めた。
そうして次の木曜日、満を持して経理部を訪れたというわけだ。
言わせてもらうけど、この時点での俺は、少しだけ怒っている。あなたが帰った朝からずっとずっと、連絡がくるのを待っていたのだ。
メッセージの内容は、なんだって良かった。たとえば「お邪魔しました」のひとことで、ちょっとふざけた言葉遊びでも披露してくれたら、こちらもいいかんじの返信ができた。
これまでなら、俺のほうから連絡をするのがノーマルなパターンだ。かわいい部下なので、彼女と別れた後は欠かさずに「無事に帰宅できましたか?」という旨に合わせてお礼を添えていた。
だけど、今週はイレギュラー。俺からの連絡なんて、できるはずがない。
はじめて身体を重ねた翌日、家主の俺が寝ている間にこっそり彼女に逃げられているのだ。笑っちゃうだろ、恥ずかしくてだれにも言えねえよ。
これは、嫌われた可能性がある。しかも、非常に高いのだ。
そもそも小林さんというひとは、無類の美少年好きである。そして俺のことは自分と同じように異性が苦手で、そのうえ男の匂いをさせない美少年として可愛がってくれていたという恐ろしい前提がある。
数年間積み重ねてきたその恐ろしい大前提を、先週の金曜日にぐるんと覆してしまったのだ。25歳の健全な男子である俺は当然ながら女性経験もそこそこあるし、それを隠さずに見せるような振る舞いをしてしまった。
これは、受け取り方次第は〝裏切り〟にあたる行為だ。これまで騙してきたという意識は少なからず存在するので、勝手に期待してきたのはそっちだろ、とも言い切れない。
しかも相手は、俺からの連絡を待っているとは限らない。それどころか、俺の連絡先なんておぞましいから削除しているかもしれない。彼女に嫌われるカードは、手持ちでいくつも揃っている。
だからやっぱり、どう考えても俺から連絡なんてできなかったし、小林さんから連絡をしてくるべきだと思う。
とびきり甘やかしてあげたいけど、ごめんね、それはあなたが俺を好きでいてくれるのと交換条件だ。
だけどけっきょく、先に惚れた俺の負け。この世の不条理は、神様の凡ミスで出来上がっていくらしい。
「小林さん、お疲れ様です。いつも遅くなってすみませんが、領収書お願いします!」
比較的女性の多い経理部の空気は、男ばっかのうちの部署よりも空調の設定温度が高そうだ。無の表情で作業をしていた小林さんは、名前を呼ばれて涼やかに顔をあげた。
それだけで、うれしくなる。俺の声であなたが反応してくれる、その当たり前はいつも奇跡だ。
上向きに伸びた睫毛の奥にある瞳は、いつにも増して不機嫌そうに冷えているのを見つけた。不安と緊張がいっきに襲いかかってくる。いきなり木曜日の昼下がりなんて、タイミングが悪かっただろうか。あるいは、やっぱり、俺のこと嫌いになった?
もともと、朗らかに微笑んで仕事を受け取ってくれるような人ではないけれど、彼女の機嫌の〝ふつう〟と〝ふつう以下〟くらいは判別できるつもりだ。
纏う空気感からして明らかに〝ふつう以下〟な上司を前にすれば、さっさと踵を返すべきだろう。わかっているけど、彼女の引力に逆らえない。どうしようもなく会いたくなって、我慢できずに会ってしまえば───もう、くやしいほどに愛おしくなって、なぜだか無性に泣きたくなった。
それなのに、平然と微笑んでいる退屈な自分を客観視して、精神のため息が溢れてしまう。外側を取り繕うのがやたらと得意な俺は、内側の魅せ方をほんとうに知らないのだ。
だって、ありのままを見せるのは、めちゃくちゃ怖い。ありのままの俺を否定されたら、もう、どうやって言い訳すればいいのか分からない。
暑苦しい自分になりたくなくて、何も知らないふりをする。仮面のようないつも通りを、表面にぺたりと貼り付けた。
さりげなくて重たくない、できればおしゃれな愛の伝え方。それっていったい、どこで習得できるわけ? ちょっとくらい不器用でいい。世界でひとつ、ハンドメイド。俺だけの、とくべつな言葉で伝えられたらよいのだけど。
「ていうか小林さん、久しぶりにお会いした気がするけれど、相変わらずお綺麗ですね」
髪の毛がとぅるとぅるになっていて、どことなく以前よりも柔らかい印象を与えてくれるような気がする。機嫌をとるための口八丁ではないけれど、そうだと思われたほうがいい。いきなり本気で口説いてきたなんて知られたら、なんか、気味が悪いだろうし。
嫌だな、かわいいの。誰が見てもかわいいなんて、そんなの小林さんじゃない。小林さんが死ぬほどかわいいという事実は、俺だけに教えてよ。
満更でもなさそうにくちびるを緩ませた彼女は、褒められ慣れていないらしい。初々しいので腹が立つのは、可愛さ余って憎さ百倍というアレだ。はあ?まじで、なんなの?かわいいんだけど?
素直な馬鹿を装って、それを口に出してみたりすればいいのかもしれないけれど。でも、ほら、小林さんってそういう〝いかにも〟な男が嫌いでしょう。
ていうか、嫌いであってくれ。俺がそういうの、好きじゃないから。俺の嫌いなものは、あなたも嫌いでいてほしい。
「〝かわいい〟は消耗品だと思うので、あまり言いすぎちゃいけないなと思っていたんですけど、やっぱり小林さんはかわいいです」
「〝かわいい〟は日用品でもありますから、毎日言ってくれてもよいのでは?」
「それって、まさかプロポーズですか?」
間違って、うっかり頷いてくれないかな。そんな下心で罠を張ってはみたけれど、彼女は目を大きく開いて「信じられない」という顔をして見せるだけだった。はいはいごめんってば、冗談です。冗談。
俺らの会話が止まった頃合いを見て、小林さんの隣に席を置く羽野さんという女性が俺を誘ってきた。初めてのことでもないので、いつも通りに軽くかわして終わらせようとしたけれど。
もう、これまで通りじゃだめかもしれない。現状維持って無敵だけど無限じゃないし、なにより、今週の俺たちはループものから抜け出している。
俺らの人生は、日常系のアニメになれないのだ。歳を重ねるし、関係性だって変わっていく。そうやって大人になってしまったし、これからも大人になっていかなきゃいけない。
また、恋愛という概念の特性として、全編通してイチかバチかのギャンブル要素があると思う。無数の分岐点があるくせに、そのひとつでも間違えたらバッドエンドの可能性がある。
しかも恋をすると馬鹿になり、よって正しい選択肢を選びにくくなるので、もはや勝ち目はほとんどない。いや、そもそもエンドがないのだ。両想い、恋人同士になったとしても、その先もずっと恋愛を続ける限りは分岐点に立たされる。
その分岐点のひとつが、いま、ここに現れた。
「飲みですか?羽野さんと?」
「そ!無理しなくていいんだけど、どうかな?」
しょうもない駆け引きをした。重たい男だと思われたくないとか、適度な社交性を見せつけたいとか、あわよくば嫉妬してほしいとか。文字にもならないような打算がぶわあっと溢れてきて、うまく処理をすることもできず。
「是非いきたいです」
どうしてか、これがこの場における最適解だと思ったのだ。興味なさそうに仕事に戻る小林さんの横顔は、あえて見ないようにした。それは、俺なりの自己防衛。
◾️
その数時間後。退社していく小林さんと松葉さんがふたり並んだ後ろ姿を見つけたとき、ようやく、自分が選択肢を間違えたことに気づいたのだ。
時すでに遅しなので、あれやこれやとありながらも、羽野さんと俺は会社から歩いて数分の洒落たワインバルを訪れた。
共感性羞恥をぶん殴るようなボカロ曲はもちろん流れておらず、かわりに弦楽器たちの音色が重なり合うような高尚なクラシック音楽が響いていた。
「道枝くんと話したかったんだよね」
「それはどうも」
「食べもの、苦手なのある?」
「ないですよ、僕はなんでもよく噛んで食べます」
「良い子だね〜」
羽野さんは、量産型なルックスとは裏腹になんだか掴みどころのない性格をしている。性格というのは概念なので、良い悪いでは判断しにくいものではあるが、羽野さんの性格はほんとうにどちらとも言い難い。
俺が小林さんに抱いているものを好意とするなら、羽野さんが俺に抱いているものは、それとはやや異なるように思われる。まあ、なんだっていいけれど。
「道枝くんは、普段なにしてるの?」
「えっと、漫画読んだり音楽聴いたりしてるんですけど、、いまこれ自分で言って、つまらなすぎて恥ずかしくなりました」
「まあ、たしかにフツウだけどいいじゃん、さいきんのお勧め漫画は?わたし、あんまり詳しくないからさ、教えてよ」
ローストビーフやブルーチーズ。会話のテンプレみたいなそれのお供には、おしゃれすぎる食べ物たちだ。俺がおすすめした漫画なんてどうせ羽野さんにはハマらないし、彼女はきっと読んでもくれない。でも、別にそれでいい。
「羽野さんの趣味を聞いても?」
「わたしは、映画観るのがすき。ひとりで映画館いっちゃって、3本くらい続けて観ちゃうときあるよ」
「へええ、それはもうマニアですねえ」
「道枝くん、映画は?観ない?」
「ごめんなさい、あんまり観ないんです。途中で集中が切れちゃうんですよね、だから予告動画だけめっちゃ観ます」
「えええ、それじゃ映画の良さがわかんないでしょ」
うん、わかんないです。わかんなくていいし。俺が好きな映画って、ちょっとエロくてすごく強い女戦士が武器を振り回してるようなのだし。切なくてきゅんとなるラブストーリーとか、感動的な泣ける話とか、俺、あんまり好きじゃないし。
それらを否定するわけじゃなくて、間違いなく俺の感度が鈍いのだ。羽野さん風に言うと〝良さがわかんない〟だけ。
だからって、とくべつ尖った趣味というわけでもないと思う。王道に流行ってる音楽だってよく聴くし、好きなアニメの影響を受けて楽器を練習しちゃったこともある。そういうの、ぜんぜんあるよ、俺。
きっと、羽野さんとは、ちがうのだ。俺は、羽野さんの思うような男じゃない。
「羽野さん、僕、女性経験ありますよ」
俺は、自分が他者がどう見えているのかよく知っている。さらに相手がどういう自分を求めているのかも、きちんと把握しているつもりでいた。
羽野さんは、小林さんと別のベクトルでプライドが高い人だ。誰かと比べられるのが嫌いで、そうされないためにあえてマジョリティに溶け込もうとする。そして、過去と比較されたくないために、無垢な男を好むのだろう。誰かにとっての1人目は、どのナンバーワンとも違う価値がある。
「うん、途中で気づいてきた」
「いつ言おうかなって、ずっと迷ってました」
「えええ?わたしが、童貞の美少年を見つけると狩に出ずにはいられないってこと、ずっと前から気づいてたの?」
「はじめてご挨拶させていただいたときから、狩人の目つきでしたねえ」
「うそ、はずかしいなあ?会った瞬間から、この子だって決めちゃってたんだよね」
ふと、小林さんはこの人のこと好きじゃないだろうな、と考えた。羽野さんは、小林さんには決してできないようなことを、いとも簡単にできちゃう器用な人だから。
「童貞じゃなくても、さ、道枝くんなら良いかもって思ってるんだけど、」
ほんとうに、器用だ。重たくならずに、さりげなく、空気に乗せるように好意を伝えられる人。不器用の権化である小林さんどころか、そこそこ器用にやってるはずの俺でさえ、うまくやれなくて悩んでいたことなのに。
彼女は、さらりとそれを成し遂げようとした。
「─────僕、す、きな人が、いるんです」
遮ったのは、わざと。めちゃくちゃに声が震えたのは、単なる落ち度だ。俺は、羽野さんのことが嫌いじゃない。そもそも嫌いだったら飲みに来たりしないし、今夜、彼女の内側に触れて、さらにちょっと好きになった。
もしかしたら、小林さんと出会ってさえいなければ、別のルートがあったかもしれない。
でも、小林さんというひとに触れた時点で、俺の地獄はとっくに決まっている。ハッピーエンドを睨みつけながら、自分で選んだ苦痛を生きていた。
ぜんぶ、あの偶然のせいだ。恋とコーラは、人を一瞬でだめにする。
◾️
それは、休憩所の偶然。
入社したての俺が、松葉さんという超人必殺仕事人と自分を比べてしまったせいで、べっこべこに凹んだ状態で逃げ出すように訪れた社内の休憩所。
そこに居合わせたのが、まだほとんど面識のない経理部の小林さん、そのひとだった。以後お見知り置きをの程度なので、お互いの存在を認識して浅く頭を下げ合ってみる
スマホで動画を観ているという、意外な休憩の過ごし方。相変わらず不機嫌そうだし、わざわざ遠くの休憩所まできたということはきっと実際に不機嫌なのだろう。
こちらもメンタルはすでに濡れ雑巾なので、もう気にせず、すこし離れた席でイヤホンを耳に突っ込んだ。
マナー違反かもしれないけど、いまの俺を救ってくれるのはボーカロイドの歌声だけ。高い声の女の子が歌ってるのが好きだし、さらに言うと本気でふざけてるのが好きだ。
流行りのバンドやドラマの主題歌も、聴くには聴く。音楽は全般わりと好き。日焼けしていない肌から想像できる通り、インドアな趣味が多い。
意外とオタクだよね、とよく言われるけど、べつに意外でもなくね?と思う。ていうか、意外ってなんだよ。そっちで勝手に〝意〟を決めてきたくせに〝外〟に出すな。
なんだか、ぜんぶが嫌になってきた。オタクって言われて、ヘッドホンからイヤホンに変えた自分も嫌になった。
いろんな上司に二転三転するようなことを言われたし、最終的にそのせいで俺が怒られた。言ったvs言ってない、報連相MCバトル。曖昧な評価は相変わらずのようだ。効率的でない感情論と、生産性のない空想論。あーもう、理不尽すぎるってば。反省やら目標やらを盾に使ってはみるけれど、社会ってほんと詰んでるね。
直属の上司である松葉さんは、ずるい人だ。要領が良いし、みんなが松葉さんには八つ当たりしにくい空気を持ってる。あと、「怒られるの嫌いなんです」とか堂々と言えちゃう。そんなの、みんな嫌いだろ。
松葉さんは良い人だしもちろん好きだけど、ずるいなあとは思ってしまう。彼の飼っている無意識の悪が、じわじわと見えてきた頃だった。
ほんとの痛みも知らないで、何が孤独だか。イヤホンから流れてくる音楽は元気にさせてくれるけど、ちょっと不健康な味がする。ボカロって、精神のコーラみたいなもの。
「これ、飲みます?」
そして、目の前に差し出されたのは、よく冷えていそうなゼロカロリーの缶コーラ。透明な水滴が、俺のぶんまで泣いている。
イヤホンを外して顔をあげると、ほんのわずかに微笑んだ小林さんがこちらを覗き込んでいた。
この時点で俺はもう、すでにちょっと落ちかけている。こういうのに滅法弱いのだ。
「え、あ、」
「コーラがいちばん〝効く〟んです」
「えっと、何に?」
「すべてです、ボカロとコーラは百薬の長」
そこからはもう綱引きみたいに、鮮度の良いハートごと、ぐいぐい引っ張られていた。あと数メートル先に地獄のラインが引かれているのを見つけて、なんとか耐えようと歯を食いしばる。
現実では、真顔でめちゃくちゃな冗談をかます彼女に、慌ててイヤホンの電源を落とした。
「音、漏れてました?」
「ちょっとだけ。でもここには、わたししかいないし、わたしもその曲好きなので問題ないです」
「ボカロ、聴くんですか」
「聴くっていうか〝効く〟んです」
またさらに1メートルぶん、呆気なくずるずると引き摺り込まれた。弱すぎだろ、俺。
あらかじめ言っておくが、彼女のようなクールビューティーおねえさんが、ボカロを聴いていたギャップにグッときたわけじゃない。いや、それもあるにはあるけど、それだけじゃない。
この言い回しに、胸がぎゅっとされたのだ。丸みのない言葉はどこか窮屈そうで、だけど彼女の語彙での最適解として出されたものだとよく分かる。
「僕、コーラ好きです。ありがとうございます」
「ええ、好きだろうなと思いました」
「どうして、そんな自信が?」
「わたしも好きだからです。これ以上の根拠がありますか?」
ああ、もう、すき。俺も、好きです、小林さん。根拠とか、どうでもいいわ。綱引きは完敗、地獄のラインを超えてしまった。あとはもう、無抵抗に落ちていくだけの簡単なお仕事です。
ひどい気分でいたせいだ。反吐が出るような自分でいたせいだ。
弱っていた心の隙間にするりと忍び込んできて、毒のように全身にまわっていく。
それは、休憩所の必然。思い出すだけで、苦いような甘いような、酸っぱいような気持ちになる。きれいな思い出として昇華されるにはまだ早い。
◾️
「そろそろ、帰ろうか」
羽野さんの合図で、ワイングラスが空っぽになっていると気づいた。そうしたら意味も無く、小林さんに会いたくなった。
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