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迷わぬ羊#5 「ひつじが五匹」

 ヒツジは激怒した。必ず、かの道枝寧路を除かなければならぬと決意した。ヒツジには恋愛がわからぬ。ヒツジは、偏屈なOLである。屁理屈をこね、自分哲学を掲げて暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。

 お分かりの通り、走れメロスの冒頭を書き換えてしまう程度には私は昂っていた。

 いちど寝たからって、ヒステリックに婚姻届を突きつけるようなまねをするつもりは微塵もない。ただし、それをせずにいられるのは、大人ゆえの理性や余裕によるものではなかった。

 まさに、己の矜持を傷つけないためである。私の奇行を止めてくれるのは、腐りかけの気品とよく磨かれた自尊心、それだけだ。

 もし、もうすこしだけ、自尊心が柔らかくあれば、私は自ら道枝くんに連絡できたと思う。

 メッセージの内容は、なんだって良かった。たとえば「お邪魔しました」のひとことで韻でも踏んでみせれば、お釣りが来るくらいの趣があった。

 わざわざ「ゆうべはお楽しみでしたね?」などと無粋なことを言う必要はもちろん無い。ただ、とくべつな金曜日を繋ぎ止めておくためには、夜の履歴を残せばよかったのだ。

 だけど当然のことながら、私のほうから連絡をするなんてできっこない。しかも、あんな夜を越えた後だし、難易度の星マークがずらっと並んでしまっている。

 でも、そんなの、ふつうわかるじゃん?小林羊が、自分から連絡できないのなんて、ちょっと考えたら、いや、考えなくともわかるじゃん?

 少なくとも、私のことをよくわかってくれているはずの道枝くんなら、今回もわかってくれると信じていた。したがって、すぐに彼のほうから連絡をくれると期待していたのに。

[道枝寧路]からの新着通知が表示されることはないまま月曜日を迎えてしまい、ヒツジは激怒しているわけである。

 道枝くんは、なかったことにしたいのだろうか。もし彼がそれを望むならば、私も従うつもりでいる。

 これまで通りの「おつかれさまです!」が飛んできたら、こちらもすぐに察してあげる。何事もなかったかのように振る舞うための精神は、万全に整えてある。

 火遊びというにはあまりにも低温だけど、それでも、火傷を負うにはじゅうぶんだった。大人になると怪我の治りが遅いから、かさぶたばかり増えていく。

 
 いちど寝たくらいで結婚を迫るつもりはない。だけど結婚してもいいのになくらいの傲慢さは、こっそり隠し持っていた。

「小林さん、また綺麗になりました?」

 もともと、超綺麗だっつーの。

 いつも通り仕事中に話しかけてきた羽野さんに「そうですかね」と短い返事をした。これは、褒められているように見えて、探りを入れられているのだと直感する。

 下心って、どうしてこうも見え透いてしまうのだろう。感度が鈍れば、どれほど生きやすかったことか。

 それはさておき、私はもともと着飾ることが好きだ。なんだかんだ言っても自己愛が強いので、鏡に映る自分が綺麗だと単純に気分がよい。ここには武装した理論など存在せず、むしろ着飾るというのは無駄が多い行為だと思っているが、好きなので仕方がない。

 すきだ、すきです、すきである。ここに理由はいらない気がする。〝すき〟と言葉にするのは容易で、安っぽくて、ふわりと軽くて口当たりがいい。

 たまに、考える。本来私たちは、ありあまる語彙なんて知る必要がなかった。〝すき〟を伝える術だけ、そのひとつだけを抱きしめておきたかったのだ。

 そんな、ファッション過激派の私はおろしたてのパンプスに不機嫌な両足を突っ込んで出社してきた。週末のうちに美容室でトリートメントをしておいたし、夏が近づいてきたので湿度に負けない化粧品を新調した。

 だからたしかに、綺麗になった、ように見えるのかもしれない。お世辞と挨拶の隙間みたいなその言葉に他意はないのかもしれないが、こちらはどうしても勘繰ってしまう。

 だって、きょう、特定の他者の目を意識してスカートを穿いてきたし。べつに会いたいわけじゃないし、なんなら会いたくないけれど、どうせ会うなら少しでも可愛いと思ってほしいのだ。

「恋ですか?」
「何故?」

 ドレスを着せることなくありのままの姿の言葉をぶつけてきた羽野さんに、間髪入れずに返事をした。どことなくメイクが決まっている日の女性に「恋か?」と訊ねるのと、髪を切ったばかりの女性に「失恋か?」と訊ねるのは、そろそろ法律で禁止してほしい。

「いつもお綺麗ですけど、今日の小林さんはなんだか可愛らしいかんじがします」
「きっと、メイクの色味を甘くしたからでしょうね。しかし、それだけで恋愛に直結させるのは、いささか安易すぎるのでは?」

 大人気なく、棘っぽい返しをした自覚はある。だけど、ふつうのかわいい部下ならここで「あ、これ以上触れちゃいけないな?」と察してしかるべきものだ。

 だけど、先輩が呼び出した体育館裏に、バイクで乗り込んでくるのが羽野さんというひとである。

「えええ?小林女史ともあろうお方が、女の勘の的中率をご存知でない?」
「たしかに私は女の勘の的中率は知らないけれど、わかる的中率もありますよ」
「え?まさか、」
「そうです。いま、私が羽野さんにむけて矢を放ったら、百発百中で仕留めます。心臓の的中率は100パーセントです」
「まってください、もしかして、部下を殺そうとしていませんか?」

 かちゃかちゃとパソコンのキーボードを打つ音がオーディエンスとなっている。私はただの確認作業だけど、器用すぎる羽野さんはMCバトルの傍で謝罪メールを打っていた。ディスり合いしながらお詫びを申し上げるなよ。

「すいませんでした、こちらの負けです。いつも通りの小林さんでしたと認めます」
「勝負のつもりはなかったけれど、またもうっかり勝ってしまいましたねえ」
「負けるが勝ちと申しますが」
「なるほど、二回戦、、、」

 それから、わざと神妙な面持ちをつくったあと、ふたりで同時に笑ってしまった。私が引いたラインの上をがっつり踏んでくるけれど、その内側にずかずか入ることはない。それが羽野さんだ。

 だけど、やっぱり、なんていうか生まれ育ちが違うのだ。羽野さんの故郷は、太陽が近くて湿度が低そう。少なくとも、私のような屁理屈サイドストリートのスラム出身ではなさそうだ。

 ちらりと盗み見た羽野さんの小さな手、中指のネイルが剥げていた。彼女が小出しにする、そういう〝隙〟が嫌いだ。ちょうど男ウケする線上で、私ができない〝隙〟を見せてくる。

 レイちゃんのようなナチュラルメイクでも、私のような完璧に施されたメイクでもない、その中途半端なあざとさが鼻につく。自分の理不尽さは理解しているし、彼女にはまったく落ち度がないけれど、これはどうしようもないことだ。その8割は嫉妬に由来すると分かっているので、なおさら自分の勝手さに腹が立つ。

 憂鬱な月曜日には、気まぐれな天使がふらっと降臨する。頻度としては、たまに以上かならず未満。

 今日だって、来る可能性がある。来ないかもしれないけど、来るかもしれない。くる、こない、くる、こない。花びらを1枚ずつ脳内で散らしながら、当たらない花占いをして待っていた。

 そのせいで、私らしくもないミスを隠れて連発し、しれっと自分で修正しなきゃいけないことになった。じぶんで気づけたのが不幸中の幸いだ。最終確認の担当に任されるタイプの人間でよかった、と思ったし、同時にこれからは他人のミスにも寛大であろうと心に誓った。

 シミュレーションもした。道枝くんがどういうパターンで現れるか分からないから、金曜日の件を彼がどう処理していたとしてもスマートに対応できるようにと自分自身をプログラミングしておいた。

 それなのに。

「お疲れ様です、お先に失礼します」

 定時を迎えた羽野さんが、ちゃっかり仕事を片付けて退社していく。こんな時間になるまで、いや、なっても、甘い色をしたふわふわの髪も目にしなかったし、どことなく世間をナメた話し声も耳にしなかった。

 当たり付きのお菓子を食べ進めたものの、外れだったときのような気分である。当たりが出ないまま中身が空っぽになってしまって、まあ最初から分かってたけどね?べつにいいし?と言い訳しながらも、やっぱりどこか腑に落ちないような、あの感覚。

 言語化できない虚無感を抱えていながら、ほんのり満たされた小腹が憎いものだ。

 勝手に期待したのは私のほうだけど、それを裏切ったのはあなただよ、美少年。せっかくとぅるとぅるになった髪も、あなたが見てくれなきゃ無価値に等しい。

 あなたのために可愛くしてきたわけじゃないけれど、あなたが可愛いと思ってくれなきゃもったいないのだ。

 綺麗な自分でありたいのと、可愛い自分を見てほしいのとでは、氷と熱湯くらいの違いがある。同じだけど、同じじゃない。今日の私が後者であることなんて、そう簡単に認められるわけがないでしょう。

 などと、一瞬でも考えた自分がこわくなった。傲慢だからとか理不尽だからとか、そんないつもの理屈じゃない。

 もっと、ずっと、取り返しのつかないこと。ただ明らかに、この、すとんと無重力に落ちていく感覚を知っていた。

 理論物理学者のアインシュタインは『人が恋に落ちるのは万有引力のせいではない』という言葉を残している。じゃあ、何のせいにすれば良いの。

 逆らうこともできずに心が吸い寄せられていくよう様子は、まさに引力そのものだ。

 別のことを考えようとしても、いつのまにか意識が透明な力に引っ張られてしまう。断片的な記憶しかないのに、金曜日の道枝くんが頭の裏側に浮かんだり消えたりしている。

 あの夜を〝思い出す〟と表現すれば、能動的だと勘違いされそうだ。脳味噌の奥のほうで、自動リプレイされているだけなのに。熱を持ったきれいな指先が私の素肌を滑る映像なんて、仕事中に再生するようなものじゃない。歪んだピントが生々しい。

 かのシェイクスピアは『ぼんやりしている心にこそ恋の魔力が忍び込む』と書いた。哲学者フランシス・べーコンは『恋をして、しかも賢くあることは不可能だ』と提言した。どうしようもなく、そんなの、勘弁してほしい。泡沫の恋に浮かれる大人なんて、目も当てられない惨劇だ。

けっきょく、道枝くんが経理部を訪れたのは、イレギュラーな木曜日だった。

「小林さん、お疲れ様です。いつも遅くなってすみませんが、領収書お願いします!」

 だけど、木曜日の午後いちばんという日時を除けば、紛うことなき道枝くんである。きらきらと発光して眩しいので、思わず目を細めてしまった。

 濃紺のスーツと、それに合わせたレモン色のネクタイから、彼の誠実さや社交性が表れている。他人からどう見られるのかを意識していて、自分を魅せるのがほんとうにじょうずだ。

 たかが、ワンナイトラブ。されど、ワンナイトラブ。こちらはそれだけのことで思い悩んで、脳内が道枝くんで埋め尽くされかけたというのに、彼のほうはあまりにもいつも通りがすぎる。

 気まずそうどころか、あの夜なんてきれいさっぱり無かったことにしたかのような天使面がなんだか不満なので、「大丈夫です、承ります」と冷たく返した。

 そっちがその気ならぜんぜん合わせるし、とか偉そうなことを宣言していたくせに、実際には、多少はあの夜が残っていると期待していたわけだ。

 この我儘が、小林羊の小林羊たる所以ってかんじがする。いいね、最悪で。

 そんな、私の不機嫌を音速で察知したらしい。

「ていうか小林さん、久しぶりにお会いした気がするけれど、相変わらずお綺麗ですね」

 髪の毛とぅるとぅるじゃないですかあ、とにこにこ微笑みながら褒めてくる道枝くん。そこで、決して私の髪に触れることはせず、後輩としての完ぺきな距離感を保っている。

 器用すぎる彼のあざとさに、私はまんまと乗せられてあげることにした。

「べつに、久しぶりってこともないでしょう」
「お綺麗のほうは否定しないんですね」
「しないです、せっかく嬉しくなったので」

 だって、私、あなたに会えることを想定して、美容室に行ってきた。知らなかったでしょ、一生知らなくていいけれども。私の女っぽい思考を知ってから知らずか、彼は包み込むように柔らかく笑った。そして、周囲の人には聞こえにくい音量に調整してから、言葉を落とす。

「〝かわいい〟は消耗品だと思うので、あまり言いすぎちゃいけないなと思っていたんですけど、やっぱり小林さんはかわいいです」
「〝かわいい〟は日用品でもありますから、毎日言ってくれてもよいのでは?」
「それって、まさかプロポーズですか?」
「、、?!」

 ああ、もう、ずるい。そんなわけがないし、そんなの、どうせ困らせるだけでしょう? プロポーズされたら嬉しい、みたいな。そういう低俗な思わせぶりは、私が最も嫌うタイプのジョークだって知ってるくせに。

 これまでに何万回もこなしてきた、私たちの言葉の掛け合い。それなのに、心臓がむず痒くなって、いい返しが思い浮かばなくなって、私が口を閉じてしまうと。

「道枝くん、今夜、飲み行かない?」

 無言の隙間を縫うように、隣の席から聞き慣れた声がかけられた。敬語が解除されているので、私にはまったく関係のない話だと即座に理解する。

 理解こそしたものの、瞬時には感情が追いつかない。だけど、それで良かったと思う。

「飲みですか?羽野さんと?」
「そ!無理しなくていいんだけど、どうかな?」
「是非いきたいです」

 だって、邪魔な失言をせずに済んだから。

 道枝くんのいちばんの魅力は、かわいいくせにミステリアスなところだ。こちらが気持ちよく話を聞いてもらっているうちに、いつの間にか彼の手のひらで転がされている。

「また、仕事終わったら連絡するね」
「よろしくお願いします」

 とくべつ親しい素振りはなく、ただ、社内の上司に誘われたので受け入れただけ。仕事中の会話としても不適切に感じられず、さらりと清潔なものだ。

 誠実さや社交性を表したレモン色のネクタイが、控えめに主張していた。光るような白い肌や桜色のくちびるは天使そのものだけれども、もう、彼を美少年と呼ぶことはできそうにない。

 もう、ふたりでハイボールを飲みながら、嘘ばっかりの自分勝手な哲学を語る日はこないのだろうか。

 とくべつなふたりにもならなくていいし、必要以上に親密にならなくていいよ。私はただ毎週変わらず、安い居酒屋の椅子でボカロ曲に殴られて、ときめきらしき成分を摂取できていればそれでよかった。

 願うなら、関係性の不老不死。不変こそ、うつくしい。朽ちるのを見せられるくらいなら、咲かせることなく蕾のままで凍らせてしまいたい。これは完全なる私のエゴだ。分かっているから、口には出さない。

 武装した理論で論破するよりも、沈黙を貫くほうがずっと難しくて、クールなことだと思っていた。だけど実際それをしてみると、声も出さずにすぐそばの会話を聞いているだけの現状は、私にとっての敗北宣言だ。

 安全な降伏論と、不完全な幸福論。人生は、最悪なことに死ぬまでずっと自分のものである。高みの見物もできないし、勝ち逃げすることも許されない。

 あの夜、私のこと、愛おしいって言ったくせに。愛の破片なんか、渡されても困るってば。いずれ凶器になる可能性があるならば、そんなのもらっても迷惑でしかない。

 ほしいのは、永久保存できる絶対的な〝なにか〟だ。その〝なにか〟が何なのか、私はまだ知らなかった。

◾️

 誠実な愛はあるかもしれないけど、誠実な恋は存在しないと思っている。だからといって、「愛は真心、恋は下心」とかうまいこと言ったのは誰だか知らないが、その文言ではいささか品がないような気もしている。

 恋における不誠実な打算的要素はもっとずっと奥ゆかしく、そして密やかであるべきだ。

「松葉さんにきいてもいいですか」
「ん?どうしたコヒツジ」
「恋愛、っぽいことなんですけど」

 
 羽野さんと道枝くんがふたりで飲みに行くと聞き、なんとなく、ほんとうになんとなくだけど、私はひとりで帰宅する気が失せてしまった。

 そこで退勤後のエレベーターでばったり遭遇した松葉さんに誘われて、小洒落た創作イタリアンを訪れたのだ。

 もうひとりの同期であるアラキレイは、彼女の部下が大きなミスを犯したようで、その対応に追われているらしい。今日は来られそうにないので、仕方なくふたりきりで食事をしている。

「きくのはいいけど、俺あんまり恋愛には精通してないよ?ニワカだもん」

 松葉さんはトークのエキスパートなので、ふたりきりになっても困ることはない。私がふざけたら全球落とさず拾ってくれるし、ふざけやすいように整えてくれる。おそろしいほど、相手の思考を先読みするひとだ。相手の気持ちがわかるという以上に、まだ自覚もしていない気持ちを本人よりも先に読み取ってやさしく応えてくれる。

 今日だって、強引に誘ってきたようなふりをして、こちらの気分を瞬時に察してくれたのだ。それを指摘した私に、彼は「だって、友だちでしょ?」と明るく笑った。

 会社の同僚である私を、こういうタイミングでは〝友だち〟と表現する。松葉さんの繊細な気遣いはスマートなのにあたたかみを持っていて、彼だけが使いこなせる難しい技だ。

 なんでも解決してくれそうなスーパー同期に、私は相談事をぶつけてみた。

「この女性いいかも?って思った後に、やっぱないわ、と考え直したことありますか?」

 すると、松葉さんはもぐもぐと変わった形のパスタを咀嚼しながら少し悩んでみせた後。「ある」と短く断言した。

「おれね、よく、がっかりされちゃうのよ」
「さすがにダウト」
「いや、これだけは本当の話だから信じて」
「それ、嘘のときに言うやつでは?」

 松葉さんのような人ががっかりされるなんてことあるわけない、と当たり前に考えたけれど、なるほど言われてみれば、と新たな可能性も見えてきた。

「でも、たしかに松葉さんだったら、期待値が高くなりがちですよね。たとえばプレゼントとか、こちらが期待した以上のことをしてくれる、というのを期待されそうです」
「そうなの、だから求められるハードルがすごく高くなっちゃうし、しかも俺も俺で、相手が求めてるものをすぐに察しちゃうからさ」
「ああああ、納得に次ぐ納得」

 うんうん、とふたりで頷き合う。それから松葉さんは、ふ、とため息を漏らすように笑って告げた。

「で、それを察したときに、なんか冷めるんだよね」

 このひと、たぶん、ほんとうに闇が深い。エスパーみたいな嗅覚を持っているので、捻くれてしまうのかもしれない。私調べによると、相手の思考が読めすぎる、いわゆるテレパシーという能力を持っているエスパーはたいてい性格が歪んでいる。

 なるほど、と浅い呼吸で呟いた。「ためになった?」と聞かれたけど、松葉さんはイレギュラーな人なので恋愛のモデルケースにはなりそうもなく「すみません、もうワンパターン、一般的なのも貰っていいですか」とおねだりしてしまう。

 それをこころよく引き受けてくれた彼は、こんどは人差し指を立てて説明し始めた。松葉さんって教師も向いてそうだし、生徒たちから人気になりそうだし、私はそういう先生きらいそう。

「まずひとつめ、キープとして引っ掛けていた相手が多数いたので相対的に見て落選した。これは何かマイナス点がついたというわけではなく、競合他社の加点によって差をつけられたっていうパターン」
「う、」
「ふたつめ、もともとそんなに〝いいかも?〟な女性として見られていなかったという、シンプルな勘違い。これもプラマイゼロ、だけど今後の展開でプラスになる可能性が無きにしも非ず」
「う、」
「みっつめ、手に入れたらなんだか急激に冷めてしまった。近づいてしまうと突然嫌になるのって、たまに不可抗力に起こる現象な気がする。しかしこれは、どうしようもないマイナス点」
「っうう、」

 どのルートを選択してもバッドエンドしか迎えないって、無理ゲーにも程がある。これが漫画なら、吹き出しがぐさぐさっと音を立てて何本も刺さっていたはずだ。

 満身創痍、肝心なのは合意、安心したいなら用意。冷静であるために無意味な韻を踏んでみたけど、本当に意味がなくて関心が遠い。

 とりあえず落ち着いてフィクションの矢を抜いていくとフィクションの鮮血が噴き出してきたので、慌ててパスタソースに入っていたほうれん草を食べた。フィクションの貧血は回避したけど、ノンフィクションの私はぜんぜん落ち着いていない。

「鉄分には、人体に吸収されやすい形とされにくい形があり、ホウレンソウに含まれるのは吸収されにくい方の鉄分です。加えて、鉄の吸収を抑える成分であるシュウ酸も含まれているため、ホウレンソウは取り立てて貧血に効く食べ物とはいえません」

 ほとんど無言でほうれん草を食べただけの私を薄く笑って見ていた松葉さんが、饒舌に辞書化して否定した。まったくのよけいなお世話だし、テレパスの前ではおちおち考え事もできやしない。

「脳内に不法侵入するのやめてください」
「え?ああ、チャイム鳴らしたんですけど反応なかったので」
「人はそれを〝留守〟と呼びます」
「玄関のチャイムをさわってみれば、文明開化の音がする」

 ふつうに会話を楽しむ傍ら、もうひとりのじぶんが嘲笑をかます。きっと、このひとには私の気持ちなんてわからない。だって松葉さんは、低俗な恋愛ごときで高尚な頭脳を悩ませたりしない。

 むしろ悩ませる側の人間で、もし、悩みすぎておかしくなった相手が包丁を突きつけてきたとしても「ええ?そんなつもりなかったのに」と笑って避けるずるい人だ。

「私、恋愛したくないです」
「うん?」
「だから、もし、私がうっかり恋愛しそうになったら、なんとしてでも止めてください」
「まわりに止められても止まらないのが恋だって、恋愛古参が言ってたよ」
「そんなしんどいこと知らなきゃいけないなら、今後一生モグリでいいです」

 私は彼の、そういうずるいところが嫌いなのだ。私のことをコヒツジと愛称で呼んでくれて嬉しかったのに、道枝くんのことも簡単にネロと呼ぶ。誰にでも、そうやって、そうなのだ。

 だから私は、松葉さんに敬語を解除できずにいる。そうすることで、自分のほうが心を開いてないふりをして、まるで優位に立っているかのような気分になれた。

「コヒツジって、男が嫌いとか恋愛が嫌いとか言ってるけど、ただ、じぶんが傷つくのが嫌なだけでしょ」

 ああああ、もう、正しいよ、正しい。たしかにそれは正しいけれど、正しさの角度を勝手に決められたくはない。

「傷つくのを怖がっては、いけませんか?」

 俯いて、情けない言葉を弱々しく返す。図星をついたのはトドメの猫パンチだが、これまでに何発もダメージを受けていた私はもうお手上げだった。

 松葉さんの仰る通りで、私は、自分を守るための言い訳を重ねて、嫌なことから逃げていくばっかりだ。だけど、それでいい。

 その液体がお湯なのか水なのか、いま登っているのが山なのか谷なのか、それを確かめたいとも思わない。知らぬが仏、知るが煩悩、世間知らずの高枕。

「もう、傷の痛みで強くなるような若者じゃないんです。無駄な怪我はしたくない」
「だからって、チャリに補助輪つけて乗るわけ?」
「転ばぬ先の、杖と補助輪です」

 甘い棘を含んだ声で囁くように「分別過ぎれば愚に変える」と嫌味を付け加えた松葉さん。

 松葉さんがゾンビに噛まれて自我を失ったりしない限り、机上のリングで大激闘にはなり得ない。彼はリスクヘッジの申し子であるうえに、争い事を好まないからだ。

 けれども両者ともに譲れない程度の頑固さは持っていて、だからこそ我々は独身を貫いているのだろうと思う。しかも、他人と二人三脚ができない自分たちを、案外きらっていないのだ。したがって、改心する機会もなく生きている。

「傷つけないひと、いるんじゃね?」
「い、ますかね」
「繊細すぎる飴細工のコヒツジを、壊さないようにぺろぺろ舐めてくれるひと」

 ふと、視線が絡んだ。黒い瞳は、気怠げなのに一粒の煌めきを宿している。ずるずると引き摺り込まれてしまうような不安に駆られて、先に目を逸らした私の負けだ。

 どうせ馬鹿にされているという予想に反して、こちらを見つめる松葉さんはふわりと柔く、優しげだった。

 さんざん意地悪なことを言っていたくせに、綿菓子みたいな顔をしている。思えば、その声はずっと、ほんのり甘かった。

 日中はワックスで整えられている髪やきっちりと締められたネクタイが、すっかり緩められていて、ほんのすこし崩れている。それが絶妙に色っぽくて、なんだかおかしい。いつも完璧な彼が、ただの同期の前で隙を見せるのは、さすがに反則ではないか。

「そんなエキセントリックな人いないでしょう」
「そんな人と出会っちゃうのが、運命ってもんよ」
「意外とロマンチックなこと言いますね」
「きみの瞳に乾杯しとく?」

 ふざけた口調でグラスをこちらに掲げたくせに、どうして、すこし、ほろ苦い表情を見せるのだ。私らしくない以上に彼らしくないものだから、慰めるようにグラスを合わせてあげた。よく分からないまま、心のなかの知らない部分がくすぐられた。

 松葉さんは弱音を吐かないので、仕事の愚痴も人間関係の相談も落としてきたことがない。いつも微笑んでいる人が少し曇った表情を見せてきたから、そのギャップを感じてしまったのかもしれない。

 彼が丁寧に縫い合わせた理想と現実に隙間が覗いて、松葉晴陽というひとりの人間が垣間見えた。完璧な松葉さんも、私たちが思い描いた〝完璧な松葉さん〟の側面だけを見せてくれているのかもしれない。

 隠しがちなこの人が、ありのままのじぶんを受け入れてもらえる素敵な相手に出会えるといいなあ。そう、無責任に願ってみたりする。願う私は、それを言葉にしなかった。

「この女性いいかも?って思った後に、やっぱないわって考え直すことはあるけどさ、」
「はい」
「たしかにコヒツジは美人だけど、中身のほうが最高だから、そんなの気にしなくていいと思うよ」

 言葉にはしなかったけれど、もしかしたら、彼はお得意のテレパシーを使っていたのかもしれない。

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