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連絡網と内田先生

今でも忘れられない思い出をここに書き残しておきたい。高校生の時にも、まだ「連絡網」と呼ばれるクラス全員に電話をかけていく仕組みがあった。連絡網の名簿には、生徒の名前や住所、電話番号に加え、保護者の名前を書く欄があった。高校から進学校に進んだこともあり、この保護者の欄には私以外はすべて父親の名前が書かれていた。昔は、男性と女性の名前は一目でわかった。母も皇后と同じ名前で、下に「子」がつく名前だった。

小学校でも中学校でもホームルームで何度も「自分の家族」について一人一人が教壇に立ち紹介する時間があり、母親しかいない私にとっては、かなり苦しい時間だった。家族構成というより、同じことを同じ人に紹介することが苦痛であった。そんな記憶がある。

高校1年生も高校2年生でも、毎年4月に配布される連絡網の保護者の欄には、私だけが母親の名前であった。

高校3年生になり、担任がサッカー部の顧問で数学の先生である”うっちー”こと内田耕一先生に変わった。サッカー部として長い付き合いであったが、サッカー部以外からも大人気の先生であり担任となるのははじめてだった。

4月の初日、うっちーが連絡網のプリントを配布し、それを見て驚いた。

保護者の名前が、全員女性の名前になっていたのだ。全員を母親の名前に変えたのだ。

すぐさま顔を上げ、うっちーを見ると、にこやかに微笑んだように見えた。

この話をのちに友人に話すと覚えていないという。だが、私には、私だけには、胸に残る小さくも大きな”革命”だった。

高2で原爆ドームに訪れ、将来政治家になるためにどうしても大学に行く必要がある。初めてそう打ち明けたのもうっちーだった。数学が受験で重要になる。そう理解し、マンツーマンで苦手な数学の補習を何度もしてくれたうっちー。その後、早稲田大学の合格が高校に伝わると誰よりも早く実家に電話してくれたうっちー。

卒業文集を改めて開く。

「うっちーへ、いつか驚く日が来るでしょう。それまで長生きしてね。はやと」

「はやとへ、ウルサカッタ。うっちー」

うっちーが亡くなって、今年で10年。

あらためて、ここ函館で手を合わせます。

天国で驚いてもらえるように、これからも変わらず飾らず、この大きな声、大きな志で頑張っていきます。

ほんとにほんとにありがとう!最高の先生だったわ。今でも感謝しています!見守っててね。また来ます。

高野勇斗