見出し画像

読書感想文:ダヴィンチ・コード/ダン・ブラウン

どこに書くべきかと思ったが、 取り留めなく結局、ここに残そう。

ダヴィンチ・コードを読んだ。
特に多くを語るほどのことはない、面白かった。
アレゴリーは秘められる、謎は重複される、というより、何が謎なのかが分からなかったことが俺の一番の問題ではないだろうか。

犯人が、3巻の初めまで読むと分かる、とこれを貸してくれた人物は言った。
俺にはそもそも何が謎なのか分からなかった、物語は魅力的だった、話は分かりやすかった、読みやすかった、他のことをしながら2時間で読めたということは1時間程度の小説だったと言うことだ、それは別に非難されることではない。

世に衝撃だったらしい、だが、そもそも何が衝撃だったのだろう。
繰り返し、登場人物の主要である彼が語る、既に多くの学者が提起している問題だと、学者が提起しているだけではない、あれらは既にあちらこちらで議論された多くの問題を焼きなおしている。
それが悪いわけではない、俺が驚くのは、それがキリスト教社会に与える影響をまだもって俺が正しく認識していなかったと言う自体だ、何が冒涜だったのか理解できず、焼き討ちにあうほどの禁止を、何故突きつけられるのか理解できないのは致命的だ。

物語の中で解き明かされる謎は、謎だったのか、それさえも分からない。
もちろん、話の筋は追わなければ「そんなこと分かってたよ」とはいえないし、登場人物の男女二人がああいった感情に陥ることは自明の理だろうが、そこになんの謎があったのだろう。
意匠は繰り返される、潜められる、それを暴くことは浅ましい。
象徴学を引き合いに出された、何故、それらが象徴で表されるか、それそのものを突き詰めるべきではないのか。
それは神聖だからだ、或いは汚濁だからだ。
時にそれは同じものだからだ。

謎を謎としておけない感性とは相容れない。


物語としては面白かった、だが何が衝撃だったのか、それがごく普通に分からなかった。

ただ、また思い出したことがある。
「人は何故薔薇が好きなのか。」
別の男の問いだ。

「人がすべて薔薇が好きだとは限らないだろう。」
咄嗟に思った答えだ。

例えそれがすべての対称の象徴だとしても。

2006/06/17(土) 23:30:05 


この記事が参加している募集

もしサポートをして頂けたら、とても嬉しいですし、そのサポートは他のクリエイターにも循環させたいと思っています。