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江戸の町は骨だらけ・・・らしい?

東京の地下には、当然ながら江戸の遺跡が眠っている。
地面を掘れば、遺跡が見つかることも不思議ではない。
そして遺跡が墓地の場合、夥しい骨が現われることになる。

およそ地下3mに眠る江戸
昨日、近所を散歩した折、千代田区岩本町2丁目の弁慶橋跡のあたりでマンションの建設工事をしていたことはすでに書きましたが、建物の基礎のためか、それとも地下を造るのか、パワーショベルでかなり深くまで掘っていました。

立ち止まって、柵越しに、穴の底を眺める私。土の質のことは、よくわかりません。

が、一般に都内の中央区や台東区、墨田区あたりだと、少し掘ると焼土層が出てくるそうです。昭和20年(1945)の東京大空襲などの、太平洋戦争当時のもの。千代田区岩本町のあたりも、焼け野原になったと聞いています。

もう少し掘ると、また焼土層にぶつかります。これは大正時代の関東大震災当時のもの。この時も神田川に逃れた人々を炎が襲って、岩本町界隈でも多くの犠牲者が出たようです。

そして、さらに掘って、ようやく江戸時代の地層に至ります。場所にもよるのでしょうが、およそ地下3m前後だとか。

岩本町の工事現場も優にその深さは掘っていましたが、特に何かあるようには見えませんでした。何かあったら遺跡の調査をしなくてはなりませんから、工事を請け負う会社にとっては、ありがたくない話でしょう。

江戸城石垣から人柱の人骨?
さて、鈴木理生『江戸の町は骨だらけ』(ちくま学芸文庫)に次のような話が載っています。

大正時代、皇居二重橋の石垣の補修をしていたら、その下から何体もの人骨が出てきて騒ぎになりました。

江戸城の石垣を組む際に、人柱にされた犠牲者の骨ではと当時考えられましたが、人骨の頭部などに「永楽通宝」の古銭が載せられており、これは中世の墓であったことがわかると、著者の鈴木理生(まさお)氏は語ります。

なぜ江戸城に墓が? と不思議に思いますが、実は江戸城は徳川家康が築く前に、太田道灌が築いた中世の江戸城がありました。道灌の江戸城は現在のものとは比較にならぬほど小規模で、周辺にはいくつもの寺があったといいます。

そして徳川家康が江戸城を拡張する際、それらの寺は移転させられましたが、建物は移転したものの、墓地に埋葬されていた骨はそのままにされていたらしいのです。

学校の怪談の定番「ここは昔、墓地だった」
実はこうしたことは江戸城周辺に限ったことではなく、江戸時代にはあちこちであったようです。いや、江戸時代はおろか昭和に至るまで、移転の際に墓石だけ移してお骨はそのままだった、というひそひそ話は比較的よく耳にしました。

昭和50年(1975)、千代田区東神田1丁目の都立一橋高校の校庭から、夥しい人骨や墓石が発掘されたことがあります。これもそうした例の一つで、しかもこの時には、墓地の下からもう少し古い町屋の遺跡が、さらにその下からはもっと古い別の墓地が現われました。

つまりある寺が移転(もしくは焼失?)して、残った墓地が何らかの理由で地ならしされて、その上に町屋ができて人々が生活し、また火事などで町屋が焼失すると、別の寺が営まれたが、これまた移転(もしくは焼失?)して、墓地が地ならしされて、現在の高校の校庭になっていたというわけです。

こうしたことが江戸のあちこちであったため、江戸の町は骨だらけ・・・だというのですが、実際の事例の裏付けがあるだけに、うなずかざるを得ません。

余談ながら、「この学校の土地は昔、墓地だった」というのがいわゆる学校の怪談の定番ですが、これもあながち根拠のないことでもないらしいのです。というのも、その土地が昔の墓地跡とわかれば、瑕疵のある土地として手放され、多くの場合公のものとなり、学校や公共施設に転用されていったからです。

また、江戸の頃は、死者を祀るものとして位牌が重視され、骨はそれほど重視されていなかったという事情もありました。

これでは「うっかり東京の街を歩けないではないか」と言いたくもなりますが、どこが墓地であったかは、たぶん掘ってみないとわからないということなのでしょう。もっとも東京は高度経済成長の時代に建設ラッシュがありましたから、すでにかなり掘り出されているのかもしれません。

むしろ「地下には現代人の知らない江戸時代が眠っているのかもしれない」と考えた方が、ロマンがあるのではと思いますが、いかがでしょうか。

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Saburo(辻 明人)
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