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「東京の地名の由来」に見る江戸

東京に限らず、地名はその土地の歴史を示すもの。
区画整理などで昔ながらの地名が消えていく傾向にあるが、
地名の由来を知れば、新たな発見もあるかもしれない。
江戸の記憶を伝える東京の地名、サラッとどうぞ。

千代田区
霞ヶ関(千代田区霞が関)・江戸以前からの地名で、日本武尊(やまとたける)が蝦夷(えぞ)征伐の際、ここに関を設けたなど、いくつかの説がある。

九段(千代田区九段北、九段南)・傾斜地に9層の石垣を築き、幕府の御用屋敷を建てて、九段屋敷と称したことに由来。維新後、石段を除いて坂道にしたという。

神保町(千代田区神田神保町)・幕臣神保氏の屋敷があり、その前を神保小路と呼んでいたことに由来する。

駿河台(千代田区神田駿河台)・徳川家康入府以前は、神田山と呼ばれた。家康の死後、駿河詰めの武士たちを引き揚げて、ここに住まわせたことによる。

永田町(千代田区永田町)・江戸時代初期、永田伝十郎ら、永田姓の武家屋敷が多かったことによるという。

錦町(千代田区神田錦町)・かつては将軍家の尊崇篤い護持院があったことから、護持院ヶ原と呼ばれた。のちに武家地となり、一色姓の家が2つあったので、二色小路と呼ばれたという。

番町(千代田区一番町 他)・旗本大番衆が拝領した屋敷地で、一番から六番まである。

三崎町(千代田区三崎町)・神田三崎町は中世から三崎村の名があり、江戸で最も古い村の一つ。三崎神社は江戸城にあった北条氏綱が信仰したという。

有楽町(千代田区有楽町)・江戸時代初期、織田信長の弟で茶人大名の有楽斎の屋敷があったことに由来。また有楽屋敷内の数奇屋造りの建物から、数寄屋橋の名がつけられた。

中央区
銀座(中央区銀座)・慶長十七年(1612)、駿府より幕府の銀座(銀貨鋳造所)を移し、新両替町とも銀座町とも呼ばれた。

京橋(中央区京橋)・日本橋から東海道五十三次を京へ上る最初の橋であったことから、地名となった。

小網町(中央区日本橋小網町)・佃島の漁民が魚を水揚げした後、小網を一つずつ干したと伝えられる。

木挽町(中央区銀座)・江戸時代初期、城の大修築を行なった際、工事に従事する木挽(鋸引の職人)を多数住まわせたことによる。

佃島(中央区佃)・江戸時代初期、幕府に招かれた摂津国佃村の名主孫右衛門が漁民を連れて移住し、将軍家の御膳に供する白魚をとったことによる。佃煮の発祥地でもある。

伝馬町(中央区日本橋小伝馬町)・大伝馬町と小伝馬町に分かれる。五街道が整備され、日本橋がその基点になると、旅行用の馬、駕籠や飛脚、人足の世話を取り扱う伝馬役がここに置かれた。また小伝馬町には牢屋敷があったことでも知られる。

富沢町(中央区日本橋富沢町)・鳶沢甚内(とびさわじんない)という盗賊が処刑されるところを家康が助命し、江戸に入り込む盗賊の取り締まりを命じた。鳶沢は部下とここに古着市を開き、鳶沢は富沢という地名になった。

日本橋(中央区日本橋)・江戸の中央に、将軍の命によって諸大名が架けた橋、すなわち江戸第一の橋、日本を代表する橋ということから日本橋と呼ばれたという。

馬喰町(中央区日本橋馬喰町)・付近は奥州街道の起点にあたり、旅行者のための博労が多くいた地であった。

八丁堀(中央区八丁堀)・寛永年間に長さ八町(約870m)の堀割を造ったことによる。町奉行所の与力・同心の組屋敷が置かれたことで知られる。

堀留町・(中央区日本橋堀留町)・堀割がここで留まりになっていたことから、名づけられた。

八重洲(中央区八重洲)・家康に仕えたオランダ人通訳ヤン・ヨーステンが屋敷を賜り、「八重洲殿」と呼ばれたのが地名になったという。

霊岸島(中央区新川)・霊岸島は浄土宗の僧・雄誉霊巌上人が埋め立て、霊巌寺を建立したことに由来。のちに霊岸と表記されるようになった。

港区
青山(港区北青山、南青山)・家康に仕えた青山忠成が一帯を拝領したことによる。家康の鷹狩に従った忠成と内藤清成が、馬で乗り回した分の土地を授けると言われて、取り比べをしたことで知られる。

麻布(港区麻布十番 他)・麻を栽培して布をこしらえた地であったという。慶長年間頃には麻布の原と呼ばれていた。

飯倉(港区麻布台)・かつて伊勢神宮に供える稲を収めるための倉があったという。

我善坊(港区麻布台)・2代将軍秀忠の正室・崇源院がこの付近で火葬された際、建てた龕前堂(がんぜんどう)がのちに「がぜんぼう」と呼ばれるようになった。

神谷町(港区麻布台、虎ノ門)・三河国神谷より家康に従ってきた人々がこの地を給されたことによるという。

十番(港区麻布十番)・江戸時代初期、増上寺造営の際に職人に賃金を支払う勘定所が一番から十番まであったためとも、十番馬場があったともいう。

白金 (港区白金)・応永年間に柳下上総介という雑色(下級役人)がこの地に住み、代々裕福であったため、人々が「白金長者」と呼んだことに由来する。

高樹町(港区南青山)・青山高樹町は、その大部分が丹南藩主高木主水正の屋敷であったことにより、主水町とも呼ばれた。明治後、高樹の表記に。

鳥居坂(港区六本木)・慶長年間に鳥居左京亮(とりいさきょうのすけ)の屋敷があったからとも、麻布氷川神社の鳥居があったことによるともいう。

浜松町(港区浜松町)・増上寺代官・奥住久右衛門が名主を兼ね、久右衛門町と呼ばれたが、その後新たな名主・権兵衛の出身地の浜松町に改まった。

霊南坂(港区赤坂)・芝高輪の東禅寺の開山・霊南和尚がここに庵を結んだことに由来する。

新宿区
市谷(新宿区市谷)・古くこのあたりに市が立ち、売買がされたので市買いと呼んだとも、付近に四つの谷があり、その第一の谷を一谷と呼んだのが転じたともいう。

神楽坂(新宿区神楽坂)・江戸時代に市谷八幡の祭礼の際、神輿が牛込御門の橋上に止まって神楽を奏したことに由来するとも、穴八幡の祭礼や津久土八幡の移転の際、神楽を奏したためともいう。

左門町(新宿区左門町)・四谷左門町は、幕府の先手組・諏訪左門の組屋敷があったことに由来する。

新宿(新宿区)・甲州街道の第一宿は最初、日本橋から16km離れた高井戸宿であったが、江戸から遠すぎるということで、元禄10年(1697)に新たな宿として内藤新宿が設けられた。

二十騎町(新宿区二十騎町)・幕府先手与力二組の屋敷があった。一組が10人編成なので、二十騎町と称したという。

払方町(新宿区払方町)・天和3年(1683)の火災後、幕府の払方御納戸同心の屋敷地になったことによる。

百人町(新宿区百人町)・江戸時代初期、家康に従って江戸に入府した伊賀者のうち、御鉄砲百人同心の屋敷地が置かれた。

矢来町(新宿区矢来町)・若狭小浜藩主酒井氏の下屋敷があり、その外垣の柵が竹矢来であったことによる。

お茶の水(文京区湯島)・湯島の側にあった高林寺境内に、よい水が湧く井戸があり、将軍の茶をたてるのに用いられたことに由来する。

音羽(文京区音羽)・五代将軍綱吉の母・桂昌院に仕えた、奥女中・音羽に与えた土地であるとも、京都清水寺を模して護国寺を創建し、その周辺を音羽と称したともいう。

春日(文京区春日)・三代将軍家光の乳母で、大奥に権勢をふるったことで知られる春日局の屋敷があったことによるという。

後楽園(文京区後楽)・水戸藩中屋敷に、徳川光圀が明の朱舜水の意見を採用して完成した、江戸初期を代表する名園に由来。

昌平坂(文京区湯島)・五代将軍綱吉が元禄四年(1691)に聖堂を湯島に移した際、坂の名を孔子のいた魯(ろ)の昌平郷にちなんでつけた。

千駄木(文京区千駄木)・1日に千駄の薪を伐採したことから、この名がついたと伝わる。

根津(文京区根津)・昔この付近まで海が入り込んでいて、忍ヶ岡や向ヶ岡の根(裾)にあって、舟が泊まるところ(津)を物語る地名だという。

本郷(文京区本郷)・湯島のうちでその中心地という意味から生まれた地名であるという。

台東区
秋葉原(台東区秋葉原)・江戸は火事が多いことで知られるが、防火対策として日除け地を設け、「火伏せ」の秋葉神社を祀ったことに由来する。

浅草(台東区浅草)・武蔵野の深草に対し、海辺に近く砂地に浅い草むらが散在するところに村があったことに由来するという。

上野(台東区上野)・かつては忍ヶ岡と呼ばれた。永禄年間頃より、下谷に対して、台地の野ということから上野と呼ぶようになったという。

御徒町(台東区上野)・幕府御徒歩士衆の組屋敷が周辺に多くあったことによる。

蔵前(台東区蔵前)・隅田川に沿って幕府の米蔵が建設され、その前の旧奥州街道一帯を蔵前と称した。

下谷(台東区下谷)・高台の地である上野に対して、低地であることから生じた地名といわれる。

鳥越(台東区鳥越)・源頼義、義家の奥州征伐の際、当時このあたりまで入り込んでいた海に阻まれたが、海を越える鳥を見て、軍勢が浅瀬を渡ることができたという伝説による。

日本堤(台東区日本堤)・荒川治水工事の一つとして造られた堤で、幕府の命により、日本中の諸侯が旗を立てて工事に従事したことによるという。

橋場(台東区橋場)・昔、このあたりで隅田川に架橋したと伝えられることによる。

吉原(台東区千束)・明暦の大火後、日本橋付近にあった遊里・吉原をこの地に移し、新吉原と呼んだ。江戸町、揚屋町、角町、京町などがあたる。

墨田区
鐘ヶ淵(墨田区墨田)・橋場にあった普門院が亀戸に移転する際、寺の鐘を誤って舟から川に落とし、引き上げることができなかったことに由来する。

錦糸町(墨田区錦糸)・付近に錦糸堀が流れていたことで地名となった。錦糸堀は岸堀が転じたという。

玉ノ井(墨田区東向島)・かつて悪代官の多賀藤十郎が民衆から巻き上げた金で、愛妾・玉ノ井を囲っていたことによるという。

本所(墨田区本所)・昔、地頭が荘園の半分を領有しようとし、本来の持ち主の分を本所と称したことに由来するという。明暦の大火後、本所築地奉行の職ができてより、本所の名が広く用いられるようになった。

向島(墨田区向島)・浅草の方から眺めて、川の向こう側の島のように見えたので、この名が生じた。

両国(墨田区両国)・隅田川に架かる両国橋に由来。武蔵と下総の両国に架けられたことによる。

江東区
海辺大工町(江東区清澄、白河)・船着場として発達した小名木川南岸の一帯に、船大工が多く住んでいたことから、この地名がついたという。

越中島(江東区越中島)・明暦から万治年間の頃、姫路藩主榊原越中守忠明の別邸があったことで地名となった。

木場(江東区木場)・元禄14年(1701)、深川築地町の一部を15人の材木問屋が幕府から払い下げを受けて町屋を開いた。2年後、木置場ということから木場と町名をつけたと伝わる。

清澄(江東区清澄)・元禄8年(1695)、検地が行なわれ、弥兵衛町から清住町に改められた。清住は代々名主を務めた弥兵衛の姓であるという。

白河(江東区白河)・霊巌寺に葬られている白河楽翁こと松平定信の遺徳を称えて町名にしたという。

平井(江東区亀戸)・明和2年(1765)、平井満右衛門、虎五郎の2人が開拓して平井新田と名づけたことによる。 

深川(江東区深川)・江戸時代初期、摂津国より移住して一帯を開拓していた深川八郎右衛門が、遊猟に来た家康に命じられて自らの姓を冠した村をつくったのが始まりとされる。

参考文献:菊地秀夫『江戸東京地名事典』(雪華社)、中江克己『お江戸の地名の意外な由来』(PHP研究所) 他

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Saburo(辻 明人)
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