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シベリアから765人の孤児を救出! 日本とポーランドの奇跡の物語を紹介します


ヨーロッパ随一の親日国が、ポーランドであることをご存じでしょうか。こんな言葉が伝わります。

「ポーランド国民は日本に対し、最も深き尊敬、最も深き感恩、最も温かき友情、愛情を持っていることを告げたい。我らはいつまでも、日本の恩を忘れない」

これはポーランド人の医師ユゼフ・ヤクブケヴィチが、100年前に語った言葉です。遠い東ヨーロッパの国・ポーランドがなぜ? そう思う方も少なくないかもしれません。しかし100年前、日本とポーランドを結びつける、ある奇跡的な出来事がありました。今回は765人の孤児救出をきっかけに生まれた、日本とポーランドの素晴らしいつながりを伝える記事を紹介します。

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酷寒の地・シベリアで起きていたこと

シベリアはユーラシア大陸の、ウラル山脈から東の広大な地域。その中でも東の端、日本に近い極東シベリアは、最も寒い1月の平均気温が氷点下40℃、最低気温が氷点下70℃に及ぶこともある、酷寒の地でした。ここで100年前、15万から20万人ものポーランド人が「生き地獄」のような状態に置かれていたのです。

ポーランドという国は歴史上、たびたび周辺強国の侵略を受けてきました。100年前のこの頃も大国ロシアへの従属を強いられ、それに反抗する人々はシベリアに流刑(るけい)にされ、重労働を課せられていたのです。そして1917年(大正6)にロシア革命が起きると、内乱はシベリアにまで飛び火し、ポーランド人も巻き込まれていきました。戦火で家財産を失い、難民となった人々は、凍土の荒野をさまようことになり、次々に餓死、病死、凍死していきます。その中には、いたいけな子どもも多数含まれていました。

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人道上、まことに重要な事件

この惨状に、ウラジオストクにいたポーランド女性アンナ・ビェルケヴィチらが立ち上がり、欧米諸国に両親を失った子どもだけでも救出してほしいと要請しますが、色よい返事は得られません。そんなアンナが、最後の頼みの綱としたのが日本でした。大正9年(1920) に来日したアンナは、外務省に窮状を切々と訴えます。悲痛な訴えに深く同情した当時の日本政府は、日本赤十字社に孤児救援を要請しました。

内乱が続くシベリアでの孤児救出活動は、日本赤十字社としても危険が伴い、また莫大な費用と手間を要します。しかし日赤は、アンナ来日の17日後には救援活動を可決。異例の早さでした。日赤社長の石黒忠悳(いしぐろただのり)は、こう言っています。

「本件は国交上並びに人道上まことに重要な事件にして、救援の必要を認め候(そうろう)につき、本社において児童たちを収容して給養いたすべく候」

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かくして大正9年から翌10年にかけてと、大正11年(1922)の2回にわたり、孤児救出が実施され、765人の子どもたちを保護することになるのです。

さて、ここではもう多くは語りません。この先の孤児と日本人との交流に始まる、両国の物語については、和樂webの記事「100年前のシベリアからの救出劇! 765人のポーランド孤児と日本人の奇跡の物語」をぜひお読みください。「こんなことがあったのか!」と、驚かれる方も少なくないことと思います。


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Saburo(辻 明人)
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