母親とコミュニケーションがとれない
「きみってラスベガスの夜くらい無駄に明るいよな。ガハハ」と上田さんがおしゃれイズムで発した5/31 22:01、この文章を書き始めました。
なに言ってんだこのおっさんは。例えうますぎやろ。
どうも、たかもにです!
さっそくですが、みなさん家族や大切な人、会社の人や学校の人とコミュニケーションはとれていますか?
世間では「コミュ力」「コミュ障」「コミュニケーションおばけ」「ラグビー部出身の代理店営業はバカしかない」などと「コミュニケーション」という言葉が市民権を得ていると思います。
そんな、人として社会生活を送る上で必須な能力「コミュニケーション」ですが、僕はその能力を自分の母親との間で使えていないのです。
あの、いまこの文章を読んでいる方なら誰でもいる、いたであろう母親です。(辛い思い出がある方、思い出させてすみません。大丈夫、僕がいますよ。僕はずっとあなたを見ていますよ。)
簡単に僕の自己紹介をさせてください。
都内で働くサラリーマンで、幸運にも奥さんとかわいいかわいいキューピー&キューティクルな4才の娘に恵まれた、40代に突入するいわゆるおっさんです。
まじ娘がかわいすぎて娘を寝かしつけるときには、一生一緒に居てくれや見てくれや才能も全部含めてって囁いてます。
そして母親について。
彼女は今年64才になる、いろんな意味で脂がのっているおばさんです。
彼女自身がどういう家庭、環境で育ってきたかを僕は詳しく知りませんが、父と出会い兄を産んで、僕を産んで、妹、弟、妹と産みまくったおばさんということは知っています。
今では僕も人の親なので、5人産んでいるという時点で尊敬の念しかありませんが、コミュニケーションがとれないのでその念を伝えることができません。
”母親とコミュニケーションがとれない”とはどういうことなのかをお話する前に、まずはコミュニケーションとは何か?について深掘りしようかと思います。
コミュニケーション
気持・意見などを、言葉などを通じて相手に伝えること。通じ合い。
-Oxford Languagesの定義
とあります。
なかなか難しそうです。
要は、相手に自分の気持ちや意見を伝えることができれば、コミュニケーションは成功したと言ってもいいでしょう。ただ、双方の問題なので片方が成功だと思っていても、もう片方は失敗と考えているかもしれません。
なるほど。ますます難しい印象が出てきました。
(やばい1時間くらい経つけど全然書き終わらんぞ。なんであの先生あばれるくんみたいな髪型してるんだ)
僕と母親の会話にあてはめて、コミュニケーションが成功したかどうかみてみましょう。
-中学の時のある日の昼下がり
母親「ちゃんとべんきょうしたかい?」
僕「うるさいなー。これからやるよ。」
母親「これからっていつ?」
僕「これからはこれからだよ!いつやろうが関係ないだろ!」
母親「なんだと!どてはしってきなさーい!!!」
僕「!??!!!?????土手??!?!?走る!?!?」
※土手の近くに住んでいました
-高校の時の放課後下がり、家に帰ると…
母親「♪♪♪」(爆音で音楽をかけて踊っている)
僕「踊るな踊るな。家が揺れるんだよでぶ」
母親「なによ!あんたなんかじさつしてきなさーい!!」
僕「!!?!??!??!?!??!?!?!自殺!?!??!?」
どうでしょうか。全滅です。いまフジテレビに出てた何かの先生の毛根くらい全滅です。
コミュニケーションのコの字も出てきていません。
それでは本題です。
なぜ僕が彼女とコミュニケーションがとれないのか。
ここまで読んでいろいろ想像されたと思いますが、結論を先にお話ししますと…
そうです。彼女がエルサルバドル人だからです。
エルサルバドルの母国語はスペイン語。
日本の母国語は日本語。
そうです(2回目)。僕はスペイン語が話せないのです。そして彼女の日本語はカタコトなのです。
昨今のハーフタレントの影響もあって、だいぶ世間でもハーフへの理解ができていると思いますが、ハーフっていうのはその名の通りほとんどのケースで父親と母親の国籍が違います。
だからハーフって呼ぶんでしょうね。よく考えられているもんですね。
そして、最近のウェインツくんの語学留学でもお分かりになるように、家庭で使われている言語が1つであれば、子供たちがどちらかの言語しか覚えないこともハーフ界ではけっこうなあるあるなのです。
だからハーフというのは羨ましがられる側面がありつつも、見た目からいじめの対象となったり、道端で英語で話しかけられることなんてまだしも、海外旅行中に現地の人に間違われることなんてこともあり、意外と苦労が多いのです。
例えば、日本の街中で自転車ですれ違った中東人っぽいやつに「Are you foreigner ?」と言われたりします。
お前がforeignerじゃ!!
40才にもなりそうなこのタイミングで、ふと”コミュニケーションがとれているのか?”に気がつきました。
彼女はカタコトでありながらもある程度日本語で話ができる。
そして僕も日常会話程度であれば、スペイン語を聞き取ることができる。
ただ、その状態って。彼女のイシューに対して、僕はファクトで応えられていると言えるのだろうか。
(ラグビー部出身の営業に教えてもらった言い回し、かっこいい)
彼女と僕のエピソードはたくさんあって、紹介しきれないのでまたの機会にするとして、そんなコミュニケーションがとれない彼女のことを僕はとても愛おしく思っている。
それこそ反抗期の時は何度も出荷してやろうかこの豚がと思ったこともあったけど、この人のもとに産まれて、本当に感謝している。
(愛おしく思っている理由もいつか書く!書くよ!)
つまりは、言葉なんかなくても人とコミュニケーションをとることはできるし、想うことなんでもっとできる。
一番近い家族とコミュニケーションがとれずに40年も生きてきた僕から、そんなことをみなさんにお伝えできればと思って筆をとりました。
愛してるぜ。