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幸福の種

「ごめんください」
 玄関の扉が開いて、男の顔が中をのぞいた。
「奥さん、いまちょっとよろしいです?」
「なんです」
 由美子の前に立っているのは……
 頭のはげた、小太りの、さえない風采の中年男性だった。
「幸福の種です。幸福の種なんですよ」
「は」
「幸福の種です」
「あの、なにかの宗教ですか」
「いえ、そうじゃありません。幸福の種といいますのは」
 冴えない男は、背中のポケットをごそごそまさぐって、中から、小さな袋を取りだした。
 袋の中には、ひまわりの種のような、細長くて大きな種がいくつも入っていた。
「これが幸福の種なんですか」
「そうです。この種を、道端とか、そのへんに蒔いてくださいな。すると、目には見えないが幸福の芽が出て、目には見えないが成長をして、最終的に、そのあたりで幸福を発生させます」
 幸福を発生させる?
 幸福の種だと?
「幸福といっても、わずかなお金を拾えるだとか、困っているときに手助けされるとか、会いたいと思っていた人が前から歩いてくるとか、ささやかなものです」
「はあ」
「ですが、そんなささやかな幸福が町中にあふれたら、きっとみんなもやさしく、平和に生きられると思いませんか」
「はあ」
「どうです、買ってみませんか」
「え、売るんですか」
「それはそうです。ぼくら福農協は、それで成り立ってるんですから」
「だけど、ひと袋いくらなんですか」
「一万円です」
「ええ」
「なんです。高いですか? ――ああ、そうそう。日当たりが悪いと福の芽が出ませんから、室内には蒔けません。ご自宅の敷地に蒔いても生育が悪いので、他人の幸福を考えていただいて、よその土地に蒔くようにしてください」
「そう……」
「それから、ものになるまで八年くらいかかりますが、気長にお待ちください。幸福は、そう易々とものにはならんのです。あ、そうだ。ひとたび幸福を発生させたら、その株は枯れますのでね」

「それでどうしたの?」
 夕食をとりながら、司郎が訊いた。
「買ったの?」
「買わないわよ」
 由美子が首を振った。
「なあんだ」
 俊郎が残念がった。
「せっかくなら買ってみればよかったのに、ねえ、父さん」
「うん、まあな」
「あなたたちはそんな無責任なことを言いますけどね、八年だなんて、詐欺じゃないかしら。その人、お母さんが買わないと言ったら、やっぱりですか、この町はまるでだめだ、みんな金と自分のことしか考えていないんですなあ、なんて言うのよ。なによ! お母さんだって、家族のために倹約に努めているんじゃないの。どうしてそんな言われ方をしなくちゃいけないの!」


(2022年「Q市への旅」所収)

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