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屋上の女

「なあ、またいるぜ」
 学校からの帰り道、仲間の一人が言った。
「お、ほんとだ」
「いるいる」
「今日もいる」
 市立病院の屋上。
 欄干の、もちろん向こう側に、このところ毎日のように女が立っている。スカートを履いた、髪の長い女が。
「入院患者かな?」
「だけど、入院服も着ていないし、点滴機もないぜ」
「それに」
 俊郎が言った。
「入院患者が、屋上に出られるのかな? なにかあっちゃ、まずいんじゃないか?」
 ――沈黙。
 すると、入院患者の家族だろうか?
 女のスカートは、風にはためいて……
 頭上高くにあるから、見えるはずもないのに、中学生たちはおっと叫んでのけぞった。
「ああ、見えないか」
「残念だ!」
「見えるはずないだろ!」
 俊郎は、もう、一団の先を歩いていた。
「さ、ばかなことしてないで、早く帰ろうや」


 翌日も、女はいた。
 なにをするでもなく、欄干の向こう側から、こちらを見下ろしているのだ。
 俊郎は、もちろんいやな予感がした。
 飛び降りると決めたつもりが、何日も逡巡しているのではないか?
 市立病院に電話をかけて、これこれの人物がいる、と伝えたほうがよいだろうか?
 いや。
 もしかしたら、すでに、市民から連絡が入っているかもしれない。
 なにしろ、あんなに目立つのだし……
 病院という場所柄、考えることは、みな同じであろう。
 また、二、三日したころだった。
 はからずも、俊郎は市立病院を訪れることになった。
 親戚に、転んで足の骨を折った者が出て、学校帰りに見舞いへ行ったのだ。
 むろん、命に別状はない。
 歓談し、気分を盛り立ててやって、部屋を出た。
 それから、俊郎はふいと屋上のことを思い出した。
 あの、女。
 欄干の向こうからこちらを見下ろしている、あの女……。
 屋上へは、日没までは、常時出られることがわかった。
 長い階段の先に扉があり、そこを開けると、だだっぴろい、コンクリ敷きの屋上だ。
 円筒形の灰皿が目に入る。白衣を着た、医師らしい男が、ちょうど煙草をもみ消し、帰るところだった。
 屋上には、だれもいない。
 女もいない。
 傾きかけた太陽は、西日をぎらぎらと俊郎に照りつける。
 女はいない。
 このところ、いつもいる女。
 いない。
 今日は、来なかったのだろうか?
 それとも、すでに立ち去ったのだろうか?
 どうでもいいようでいて、内心では、どこか女に惹かれていた。
 だが、あれがどんな人なんだろうという興味は、満たされることはなかった。
「あ、村上くん!」
 病院を出たすぐのところに、仲間が何人が集まっていた。
「あれ、みんなどうしたんだ?」
「きみこそどうした」
 俊郎は、親戚の見舞いへ行った帰りだと教えた。
 連中は、彼が言い終わるやいなや、
「ま、そんなことはどうでもいいん。すごいものを見たぞ」
「すごいもの?」
 連中は、鼻を鳴らし、
「いつもいる、あの女だ。いつも、欄干の向こうに立っている」
「憶えてるさ」
 俊郎は言った。
「だが、今日はいなかったろう?」
「まさか!」
 連中は言った。
「あの女、病院の壁をよじのぼって、屋上へ出るんだ。そうして、欄干をまたいで、あっち側にいくんだ。病院の中から来るんじゃないんだよ!」
「…………」
 見上げると、屋上に、女。
 いつものように、欄干の向こうに、ぼんやり立っている。
 スカートが、はらりと風になびいて……
 表情は見えないが、きっと、笑っているに違いなかった。
 

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