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急行いずも殺人事件

 この作品は、いくつかある『Q市への旅』(2022年)未収録作品のうちのひとつです(筆者)。


「なあ、鞄の中に、文庫本が入っていなかったか?」
 良夫が、妻の由美子に訊いた。
「文庫本?」
 由美子が、エプロンで手を拭きながら、パタパタと居間へやってきた。
「なんです、文庫本って」
「出張のときに買った本なんだ」
「どこにしまったの」
「鞄の中だよ」
「なら知らないわ。あなたの鞄なんて開けないもの」
 それはそうだが、良夫はいよいよ困ってしまった。
「参ったな。読みかけの文庫本が入っていたんだが、どこにも見当たらないんだ」
「なんという本?」
「『急行いずも殺人事件』」
「『急行いずも殺人事件』?」
 それは、この間の出張のときに、出発駅のキオスクで買ったものだ。
 良夫は、へいぜい、ほとんど本を読まないが、長い電車移動のお供として、出張の折によく本を買うのである。
「――さあ、見なかったわね」
 由美子は言った。
「俊郎か司郎が見つけて、読んでいるんじゃない?」
「ふむ……」
 ところが、二人に訊いてみても、そんな本は見ていないという。
 ちょうど、物語が面白くなってきたところだったから、惜しいといえば惜しい。
 といって、同じものを書店に買いに行く気にはならないし……
 良夫は、あきらめて、それきり本のことも忘れてしまったのであった。
 

 それから、何週間か経って。
 良夫は、また出張に行くことになった。
 驚いた。
 出発の日の朝だった。
 良夫は、鞄の中に、『急行いずも殺人事件』の文庫本を見つけたのである。
「あれえ」
 普段も会社へ持っていく鞄だ。
 まちがいなく、昨日までは、本は入っていなかった。それが、出張の日になって、ひょっこり出てきたのである。
 今回もキオスクで文庫本を買っていこうと思っていた良夫は、思いがけず発見した『急行いずも殺人事件』の続きを、移動中に読むことにした。
 小説は、面白かった。
 長い道中、小説に夢中になったおかげで、退屈せず、つかれもせず、目的地にたどりつくことができたのである。
 帰途も、続きを読んだ。
 下手人は、意外な人物であった。
 あっぱれの名推理に膝を打ち、物語の終焉を見届けたときには、もう、降りる駅の手前にきていた。
 良夫は、本をぱたりと閉じ、満足げな顔を浮かべた。
 もしかしたら……
 もしかしたら、帰宅して家に着いてみれば、鞄の中から、『急行いずも殺人事件』はなくなっているかもしれない。
 そんなことあるはずがないと思いつつ、そうであったら、むしろうれしいという気もした。
 旅のお供とは、そういう、さっぱりした縁のものではないだろうか?
 良夫は、いつもとはまた違った意味で、早く家に帰りたいものだと思った。 

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