【掌編】シャット・アウト
「別れよう」
僕がそう言ったときのシズルの反応はおおよそ期待通りのものだった。何を言われたのかわからない、というやや不自然な笑顔を作った後、困惑と、疑いの目。僕が逆の立場だったとしても、きっと同じようにするだろう。逆の立場なんてものが、ありうるのだとしたら。
「どうしたの、いきなり?」
彼女は笑顔を作っている。まだ少し余裕がある感じだ。嫌な予感はしているが、考えようとは思わない。考えたくない。僕は手提げ鞄から円筒形の保温弁当箱を取り出して机の上に置いた。ごとん、という重たい音を聞いて一瞬、シズルの目から光が消えた。腐りかけた動物の死骸を見るような目。僕はため息をついた。
「だんなデスノートって知ってます?」
後輩に教えられて、興味本位でサイトを覗いたことがある。「早く死ね」「存在が無駄」「大嫌い」「奴隷生活」「モラハラクソ野郎」「しんどい」「早くいなくなれ」云々。ほとんどは単なる愚痴の羅列でしかなかったが、共感できる内容もあるにはあった。スマートになった分、たがが外れてしまった居酒屋、というような趣があった。いかんせん言葉が汚いので男が読むものじゃないなあ、とは思ったが、夫のDVに苦しんでいる女友達がいるので、世の中にクズみたいな男が一定数存在することに対して違和感もなければ、変な話、嫌悪感のようなものもあまりなかった。社会はそうした人口構成の下で成り立っている。単にそれだけの話だ。彼女の夫婦関係について何度か話をしたことがある。「子供が居るわけじゃないし、さっさと別れたらいいじゃん」彼女は遠くを見るような目で僕を見た。彼女が言外に何を伝えたかったのか、いまなら少しわかる気がする。
そうした現実を目にしても僕には、自分の妻を疑おうという気が微塵もなかった。自らを客観視できていなかったという以前に、彼女なら言いたいことは言ってくれるだろうという確信があった。そもそも僕は彼女のそういう、さばさばとした男気のある部分に惚れたのだ。
「わかった」
彼女の一言は、少しく僕の動揺を誘った。わかった?
「別れよう」
そこにはひとかけらの曖昧ささえ包含されていなかった。「わかった」「別れよう」。その意志は鍛え抜かれた正宗のように堅く、冷たく、鋭利に、僕の心臓に音無く突き刺さった。いつの間にか、僕は天王山の頂に立ち尽くしていた。後にも先にも道はなく、ただ彼女の目の奥に、煌めく暗い炎の見えるだけだった。
昼時にたまたま見つけたツイッターの投稿に、自分の弁当と瓜二つの写真画像がアップされていた。普段昼休みに読むことにしている小説を家に忘れていなければ、シズルの投稿した匿名ツイートがバズったりしなければ、臨時会議で休憩時間が二時間もずれ込んだりしなければ、僕はそれを目にすることはなかっただろうし、痰入りの味噌汁や生ゴミが混じったニラ卵焼きをまるごと残すこともなかっただろう。
僕は彼女の目を見た。彼女は僕を見ている。僕が彼女に押し付けた理想は焼き払われ、散り散りになって瞳孔の闇に溶けていった。どこで道を間違ったのだろう?
「何か言うことはないのかよ」
そうだ、きっと僕はこうやって、いつもシャッターを下ろしてきたのだ。真っ直ぐに進んでいるつもりで、コンパスの向きも確かめずに、ひたすら歩き続けた。隣を歩いていたのはシズルではなく、シズルをかたどった僕の願望だった。僕が語りかけていたのは彼女ではなく――
「ノブヒコはいつもそう」
僕はどうにかして閉じてきたシャッターを開こうとした。どうしていま、自分がここにいるのかを確かめなければならない。
「どういう意味だ」
でもシャッターは重たすぎて、僕に持ち上げることはできない。彼女は哀れむような目で僕を見た。悲しそうに笑って、首を振る。
きりきりきりと金属のきしむような音がする。僕と彼女の間に、闇の空からシャッターが降りてくる。彼女の顔が隠れ、胸が消え、腰が失われていく。僕には何もできない。膝がなくなり、つま先が消滅する。がしゃああん、という暴力的な音がして、巨大な金属の膜が揺れるぼおんぼおんという轟きが暗闇にこだまする。
僕にはもう、何も見えなくなった。