こんにちは。高松奈央です。
わたしが高松奈央になった日は、自分の中にもう一つの人格を持つこと、そのために第2の名前を持つことを決めた日です。それは家族で1日を過ごした休日の夜のことでした。子供たちを遊ばせながら、夫婦でたわいもない会話をしていたときです。

子供を2人も授かることができるなんて、不妊治療をしていた頃は想像もできなかった。もっと言えば2人の子供と一緒に自由に遊べる生活ができるとは思ってもいなかった。ちょっと欲張りして、3人めの子供を授かることができたら、私たちは、家族はどうなるだろうか。という話をしていたときのことです。
冗談を交えながらも夫が私に

我が家が“3人め“を迎えることになったとしたら
“3人め“は子供ではなく
生まれかわったあなただと思う
新しい人生を得たあなたが“我が家の3人め“なのかもしれないね


夫は私に何気なくかけたこの言葉を一晩寝たら忘れたらしいが、高松奈央になる前の私には衝撃の一言だった。この言葉は、わたしのことをずっとそばで見てきた夫だから言えたであろう、いや夫でないと言えない一言だったと思う。この言葉をかけてくれた夫に感謝したい。この言葉で高松奈央がうまれたのだから。

わたしが新しい人生を得ようと思ったきっかけは、およそ3年前に遡る。2人めの子である長女の妊娠と出産がきっかけだった。妊娠がわかった直後、わたしのお腹にいた娘は異常を指摘され、無事生まれてこられるかわからない状態だった。言うまでもなく不安だった。そんな気持ちを本当の意味で共有できるのは夫だけだった。

不測の事態にも対応できるよう、出産の1ヶ月半ほど前から最寄りの大学病院に1人で転院した。当時もうすぐ2歳だった長男を夫に託して。最寄りといっても車で3時間。ちょっとした引っ越しをしたような感じだった。

不安といっても母体である自分自身には異常はなかったので、出産までは自由に外へ出ることもできた。ついついデータ収集をしてしまう性格からか、外に出て景色や空気を味わうことは好きだったが、この時の外の気温はマイナス20℃が当たり前の世界。普段ならあまり外には出たくない。普段なら嫌だと思うような頬を刺すほどの寒さや空気中の水蒸気が凍って創り出す光の世界が今までのそれとは違うように感じられ、無意識に自分の身体に刻み込みたいと周辺をたくさん歩いた。今でも目を閉じるとあの時の景色と空気を思い出す。

そんな日々を急に終わらせるかのように娘は生まれてきた。

朝いつものように外を歩いてその日の空気を体に覚え込ませた日の夕方だった。

娘は生まれてから数日、自ら呼吸することができず命が危ないと言われた瞬間もあったが、幸いなことに普通の暮らしができるまでになった。娘と2人で退院と同時に“ちょっとした引っ越し“を終え、夫と長男が待つ自宅に戻った。そして生後間もない娘を抱く度にこう思った。

この世に生まれてきてくれた我が子に感謝するとともに、自分の人生にも感謝しよう。
子供を真っ当に育てたい。そのためには自分が真っ当に生きていたい。
これまでの自分を生かして自分を最大限に活かす人生を送ろう。


そう感じた時真っ先に見直したのは、仕事に向き合う自分だった。改めて考えたこともなかったが、真っ先にこれをあげたということは、無意識な部分で仕事に向き合う自分に何かを問い続けていたのだろう。

このとき目を閉じてすぐに思い出したのは、命の危険があった娘とそばで言葉にできない不安と戦うわたしを医療の力で助けてくれた医療者の方々だった。職業としての仕事ではなく、為事というか志事というような意味でも仕事をしていたことがわたしには濃く映った。正直収入のために仕事をして、収入のためならと色々なことを我慢しながら仕事をしていた自分が恥ずかしくなるほどだった。

じゃあ、自分が生活とか収入とかも気にならなくなるほど打ち込めることはなんだろうか、自分の人生をかけてもいいくらいに問題に思うこと、気になることはないのか。そう問い続けた。そんな時に自分の経験の中で結びついたのが、近しい人が産後うつになった時に力になれなかったことを悔やむ経験と自分が不妊治療をして子供を授かったこと。言葉がこれで適当かわからないが

せっかく子供を授かったのに、この世に産んだのに、意図せず産後うつになるなんてもったいない。わたしができる方法で産後うつを減らしたい。いや、なくしたい。母親になった女性が母としてだけではなく、その人自身の人生も最大限に幸せにしたい。

そんなときにたどり着いた言葉が‘産後ケア‘だった。産後ケアをする人といえば助産師か産後ドゥーラが一般的だろうか。一念発起してそれらの職に就くことも一瞬考えたが、子供を持ちながら働く女性を見てきたという仕事での経験をなかったことにしてキャリアチェンジの方向性をとれなかった。誇れなかったとはいえ、自分が今まで積んできた仕事でのキャリアを否定したくなかったのだと思う。今までのキャリアをもとに自分だからこそできる“産後ケア“を追い始めたのは産後約半年のことだった。この間、うまく思いや考えがまとまらず、言葉になっていない言葉を受け止め続けてくれていたのも夫だった。

自分だからこそできる産後ケアといっても、そう簡単に見つけることはできなかった。相談するたび、専門の資格がない人に産後ケアができるのかという言葉もたくさんかけられた。そのたび自分のこれまでのキャリアと産後うつを減らしたい、無くしたいという思いが結びつかなくてもどかしい気持ちになった。

でも諦められなかった。自分にぴったりくる方法は何か探し続けた。そんなときに自分のこれまでの仕事でのキャリアの中で仕事の標準化のためにマニュアルや仕組みを作ることが自分でも好きで、相手に喜ばれたことを思い出した。

産後のお母さんが特別なことをしなくても産後ケアを受けられて、その後の人生をよりよく生きられるツールを作ろう

産後ケアの標準化。自分以外には伝わりづらいが、自分にはしっくりくる表現だった。

それがわかっただけで少し進んだ気がした。自分の中の霧が晴れる感覚があった。そこからもっと先に進むのにもっと人生を体系付けて学びたくなった。その上で産後ケアの標準化のためのツールを作りたかった。資格ありきというわけではないが、キャリアコンサルタントという国家資格にたどり着いた。受験を決め、夫に相談して協力を取り付けるまでは約半日だった。ずいぶん方向性を探してきたのに、こういう時だけ早い。

それから約1年。うまく行けば半年で取得できるこの資格も、コロナの影響で試験が延期となり1年かかっての取得となった。1年勉強して発見したこと。それはキャリアコンサルティングが興味深くて夢中になる自分と、産後ケアとキャリアコンサルティングの合体で産後ケアの標準化が叶うという妙な自信。

これがsango手帳を生み出そうとしている高松奈央のこれまで。

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