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#23 藤沢宿と南湖の茶屋町

門前町だった藤沢宿

 東海道五十三次の6番目の宿場である藤沢宿は、東海道整備以前から清浄光寺(遊行寺)の門前町として栄えた町だった。
 八王子道、鎌倉道などの街道との分岐点に位置し、1555年(弘治元年)に小田原北条氏が藤沢大鋸町に伝馬が置が置かれるなど中世から交通上の要衝だったが、1601年(慶長6年)正月に徳川家康が定めた宿駅伝馬制により、東海道の宿場町として整備された。

 宿場は境川東岸の鎌倉郡大鋸町と同西岸の高座郡の大久保町、坂戸町の3町で構成されており、宿場の範囲は遊行寺東側の江戸方見附から台町の東手前(小田急江ノ島線を越えたあたり)の上方見附までだった。
 天保14年(1843年)の「東海道宿村大概帳」では、総家数919戸、宿内人口4,089人(男2,046人、女2,043人)で、本陣1軒(蒔田本陣)、脇本陣1軒(享和3年(1703年)の記録では脇本陣2軒)、旅籠45軒の規模で、問屋場は大久保町と坂戸町に1軒づつあった。

藤沢宿江戸見附の案内板

 藤沢宿には、1189年(文治5年)に奥州平泉の衣川館で自害した源義経と弁慶の首級が葬られたという伝承と、義経の首級洗井戸、弁慶塚がある。
 義経の首級は腰越で首実検が行われた後、浜に打ち捨てられ、潮にのって川を遡り、里人に拾われて「首級洗井戸」で清められたと伝えられている。

 「首級洗井戸」から200メートルほど北の白幡神社は、源義経を最新として合祀している。

源義経を合祀する白幡神社

藤沢御殿

 藤沢御殿は徳川将軍家の宿泊施設であり、鷹狩の折に宿泊したという。
 1596年(慶長元年)頃、東西106間、南北62間の広さの御殿が建てられた。表御門は南側、裏御門は東側にあったようだ。
 江戸時代の初め頃、藤沢にはまだ本陣がなかったので、将軍が宿泊するための御殿を今の藤沢一丁目あたりに作った。
 御殿の周辺には御殿を管理する代官陣屋が配置され、陣屋小路をはじめ御殿辺などの地名や陣屋橋、御殿橋、鷹匠橋といった橋の名に今では往時のなごりをとどめているそうだ。
 家康、秀忠、家光と三代に渡って30回近く利用されているが、1634年(寛永11年)に家光が使用したのを最後に、1682年(天和2年)までに廃止されている。

南湖の茶屋町

 東海道を上方に向かって歩くと富士山は通常、道の右側に見えるが、茅ヶ崎市南湖(なんご)付近では、道が大きく湾曲しているために左側に見えた。
 江戸時代には「左富士」と呼ばれるようになり、歌川広重の浮世絵でも「南湖の左富士」が描かれ、茅ヶ崎名所のひとつとして知られていた。

 東海道の藤沢宿と平塚宿の間には、休息する場所として4つの立場があったが、その中でも「南湖立場」は規模が大きく、二階建ての茶屋が建て並ぶ茶屋町として栄えた町場だ。

 南湖の茶屋町は、元禄から亨保期頃に茶屋が開業し、参勤交代大名などの休憩地となった。
 南湖には旅籠もあり、江戸時代も中頃になると、所によっては次第に町場化してくるようになり、茶屋本陣や旅龍茶屋や商店が軒を連ね、旅人の宿泊にも応じる茶屋町を形成した。

 南湖の「松屋」という茶屋本陣では萩藩、加賀藩などの大名行列も休憩したという記録が残っているそうだ。ほかにも「橘屋」「藤屋」「江戸屋」「布袋屋」といった茶屋があったという。

藤沢宿の京見附

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