【街と街道を歩く】本町通りと日本橋通り(その2)
大伝馬町
昭和通りを渡ると大伝馬町が始まる。江戸時代、大伝馬町は伝馬制度を支えた町だ。大伝馬町はもともと、現在の皇居外苑付近にあった村が現在の地に移転したとなっており、元の村は「宝田村」説と「祝田村」説がある。
実際のところどちらのかだが、大伝馬町には「宝田恵比寿」があることから、宝田村の可能性が高いと考えている。
大伝馬町では、家康の命を受けた馬込勘解由が伝馬役を勤めることに始まり、馬込家が代々伝馬役を勤めている。
土曜日の午後、人通りは少ない。
大伝馬町一丁目(現日本橋本町二、三丁目)には、主に伊勢・松阪出身の商人が経営する木綿問屋が集まり、「木綿店(もめんだな)」とも呼ばれる問屋街として発展したという。
最盛期、町内には木綿問屋が74軒あり、その中でも6割以上が伊勢出身だったという。
享保年間(1716年〜1736年)頃から呉服店も木綿問屋に進出するようになり、1805(文化2)年には尾張の「伊藤屋(松坂屋)」も出店している。
通旅籠町と通油町
改称時期は不明だが、大伝馬町のうち三丁目は通旅篭町と通油町に改称している。通旅籠町は旅籠が多かった地域とある。奥州街道、日光街道の通りでもあったので、街道利用者向けの旅籠が増えたことから町名にまであった町ということなのだろう。
通油町は、灯油を売る店があったことにちなんだ町名とある。
大伝馬町の南側の裏通りは「大丸新道」と呼ばれ、江戸時代には下村正右衛門の経営する木綿問屋の大丸が繁栄を誇っていた。
歩いていると、蔦屋重三郎「耕書堂」跡の案内板に遭遇。
蔦屋重三郎(1750年〜1797年)は、江戸中期の出版プロデューサーで、生まれは吉原だったという。
1783年(天明3年)、当時、版元が立ち並ぶ通油町に進出し、洒落品、黄表紙、狂歌本、錦絵などを出版し、喜多川歌麿や東洲斎写楽の浮世絵など、ヒット作を多く出した。
47年という決して長くはない人生で、幕府の弾圧を受けてもやりたい事をやり続けた生き方。どんな人なのか会ってみたい思いに駆られた。
横山町
江戸時代、横山町は通りが奥州街道、日光街道沿いだったことから、近隣の旅籠に投宿する旅人向けの小間物問屋、紙煙草入問屋、地本双紙問屋等が軒を連ねていた町だという。
江戸幕府の御用花火師であった鍵屋もここに店を構えていたという。
現代も衣料、雑貨関連の問屋が通りに軒を連ねている。小間物繊維問屋街として知られるそうだ。
浅草橋と郡代屋敷
神田川にかかる浅草橋は、日本橋から奥州や日光、浅草寺、新吉原へ行く街道筋に架かる橋だ。1636年(寛永13年)、福井藩三代藩主松平忠昌によって作られた桝形門の浅草御門は、江戸を守る三十六門の一つ、見附門の橋だった。
1657年(明暦3年)に発生した明暦の大火では、囚人の逃走を防ぐために門を封鎖したため避難民の経路を断たれ、多くの焼死者を出したという。
明暦以後、吉原が盛んになると舟遊びが盛んになり、浅草橋から柳橋にかけて船宿ができたいう。
浅草橋周辺の神田川沿いには、今も船宿と屋形船が並ぶ。
関東郡代(当初は代官頭)は、主として関東の幕府直轄領の年貢の徴収、治水、領民紛争の処理などを管理した役職で、郡代屋敷跡は役宅があった場所を指す。
当初は、江戸城の常盤橋門内にあったが明暦の大火での焼失により、浅草橋門内に移った。馬喰町郡代屋敷と称したという。
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