#16 なぜ旅立ちは「お江戸日本橋七ツ立ち」だったのか?
江戸時代の時刻制度は不定時法
江戸時代の日本では、不定時法と呼ばれる時刻制度が使われていた。不定時法では1日を昼と夜に分けてそれぞれを6等分にし、その一つの長さを1刻(いっとき)と呼んでいた。
平安時代の延喜式では、子と午の刻(12時)には九つ、丑と未の刻(2時)には八つ、寅と申の刻(4時)には七つ、卯と酉の刻(6時)には六つ、辰と戌の刻(8時)には五つ、巳と亥の刻(10時)には四つ太鼓を鳴らすと決められていたそうだ。
ところで、時刻の基準となる明け六つと暮れ六つは、朝、薄明が始まった時を明け六つとし、夕方、薄明が終わった時を暮れ六つとしていたそうだ。そのため、明け六つは日の出より30程前、暮れ六つは日没より30分程後だったことになる。
そうすると、春分の頃の江戸の明け六つは、午前5時9分頃、暮れ六つは午後6時29分頃となる。
これが夏至の頃だと、明け六つは午前3時49分頃、暮れ六つは午後7時36分頃になり、冬至の頃だと、明け六つは午前6時11分頃、暮れ六つは午後5時8分頃ということになり、季節によりかなり違うことになる。
お江戸日本橋七つだちと高輪大木戸
民謡「お江戸日本橋」では、「お江戸日本橋七つ立ち」という歌詞が登場する。これは、旅人が江戸を出立する時刻のことを歌っており、暁七つの時刻に出発していたというのことなのだそうだ。
暁七つとは明け六つより1刻前の時刻で、現代で言えば春分の頃で3時22分頃になる。
なぜ、夜明けより更に一刻前の暁七つに出立したのか?
江戸時代の旅人は、平地なら一日に十二里、山道なら十里を歩いたという。日本橋を出発した旅人たちは、女性なら33km先の保土ヶ谷宿、男性なら42km先の戸塚宿に泊まるのがスダンタードな日程だったという。
途中の休憩を入れて1日10時間は歩いていたことになる。
宿場には木戸があり、宿場による差があったようだが暮れ六つ(18時)から夜四つ(22時)には閉門されていた。そのため旅人は、閉門前に宿場に到着する必要があったことから、陽があるうちに次の宿まで行けるかどうかを決めていた。
江戸を出立する旅人は、最初に高輪大木戸を通過する。
高輪大木戸は江戸の治安維持のために、1710年(宝永7年)に東海道の両側に石垣を築き設置された門という。
江戸の各町には町木戸が置かれていたが、高輪大木戸は江戸全体を守る木戸であったことから、「大木戸」と呼ばれた。
高輪大木戸は幅が約10mあり、初めは柵状の門があり、明け六つに開門され、暮れ六つに閉門していた。
日本橋から約7kmに位置するこの門を通過することを考えると、開門の1刻前に出立すれば、大木戸の開門にちょうど良い時刻ということになる。
江戸時代後期には大木戸の門の機能は廃止され、浮世絵には石垣のみが描かれている。
ところで、木戸は始め、1616年(元和2年)に建てられたが、1710年に700メートル南の高輪に移転したという。
芝口門のあった場所は元札ノ辻と呼ばれるようになった。
江戸時代の「ガイドブック」
江戸時代にも旅の心得が書かれたガイドブックが存在していたという。
書かれている内容は、トラブルに巻き込まれないための心得や、天気予報のやり方や、温泉とその効能が書かれていたり、宿場間の距離から、人足・馬などの費用にいたるまでの情報が網羅されているものもあるそうだ。
その中でも有名なのが「旅行用心集」という本。八隅蘆庵(やすみろあん)が1810年(文化7年)に刊行した本で、旅の携行品、温泉でのふるまい、船酔いへの対処など、旅の道中で注意すべき事柄が記されており、当時の旅人に絶大な支持を受けたと言われている。
当時の旅を知る手がかりとしては、なかなかユニークな書物なのだろう。