【街と街道を歩く】東海道を歩く(箱根湯本〜三島)その1
4月上旬の週末、二日間かけて旧東海道を箱根湯本から三島まで歩いてみた。天候は晴天だが上空に寒気が流れ込んでいるとのことで、若干肌寒い気候だった。
日本橋から歩き始めた東海道の歩行は、今回が9回目。
今回は箱根の石畳を歩くため、厚手の靴下にトレッキングを履いて臨んだ。
出発地点となった箱根湯本は738年(天平10年)に開湯されたとされる箱根で最も古い温泉だそうだ。
準備運動の後、10時頃から歩行を開始。
早川に沿って旧東海道を歩き始めた。
早雲寺
歩き始めて15分程したところで早雲寺に到着。
早雲寺は、1521年(大永1年)に北条早雲の遺命によって二代目氏綱が、京都大徳寺の住持、第83世以天宗清を請じて開山された寺で、北条家の菩提寺となっている。
寺内には早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の後北条氏5代の墓と連歌師宗祇の供養塔と句碑がある。
早雲寺の後北条氏五代の墓は、1672年(寛文12年)、狭山藩北条家五代当主の氏治が北条早雲の命日である8月15日に建立したものだそうだ。
連歌師の飯尾宗祇は、1502年(文亀2年)に箱根湯本で亡くなり裾野市の寺に葬られたが、江戸時代に入ると芭蕉始め多くの文化人が終焉の地である箱根湯本を訪れたことから、供養塔がつくられ、墓石扱いされ今に続いているそうだ。
本堂裏には枯山水の庭園があったが、落ち着いたたたずまいだった。
湯本茶屋一里塚
歩行を始めて40分余りを経過したところで、日本橋から数えて22番目の湯本茶屋一里塚に到達。日本橋からの距離は、91.6kmになる。
湯本茶屋一里塚には街道の両側に盛土をして、上には榎が植えられていたそうだ。
現在は塚は両側とも無くなっており、石碑のみで往時の名残は残念ながら感じられなかった。
割石坂
歩き難い石畳の道を歩きながら、「観音坂」「葛原坂」「女転し坂」を順に登り、12時頃「割石坂」に到達。
「割石坂」は、1193年(建久4年)、曾我五郎が親の仇工藤佑経を討つべく富士の裾野に向かう途中、腰の刀の切れ味を試そうと、路傍の巨岩を真二つに切り割ったと伝えられているところ。
昨年の大河ドラマでも描かれた日本三大仇討ちの一つとされ、大河ドラマを見ていた人であれば、「曽我兄弟の仇討ち」は記憶に新しい話だと思う。
畑宿と畑宿本陣跡
12時25分頃、畑宿に到着。
畑宿(はたじゅく)は小田原宿と箱根宿の間にあった「間の宿(あいのしゅく)」の集落だったところ。
畑宿本陣跡(はたじゅくほんじんあと)は、屋号を茗荇屋と呼ばれた旧名主の本屋敷跡で茶屋本陣だったところ。
幕末には、アメリカ総領事のハリスや通訳のヒュースケンも利用したという記録が残っているそうだ。
明治元年には、明治天皇が東京遷都の途中で小休止に利用したとのことで、案内板に記載されている。
家屋は約70年前大正元年、全村火災の時に焼失したが、庭園は昔を偲ぶそのままの姿で残されているそうた。
今回は、庭園は観ずに通過した。
畑宿は木地細工が作られた記録はかなり古くからあるというところで、街道筋には工芸品の店が軒を連ねていた。
午前中はここまでで、昼食休憩した。
昼食は畑宿一里塚近くの蕎麦屋で蕎麦を食べたが美味しかった。