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【歴史小話】貨幣の話(2)

慣用句などで「びた一文まけられない」とかいったかたちで「びた」という言葉を子供の頃からよく耳にしたが、この「びた」が何のことか長いこと知らなかった。
貨幣の歴史を調べていくと「鐚銭(びたせん)」に出くわす。
鐚銭とは粗悪な銭貨のことで、私鋳銭(私的に偽造された銭)だったり、表面が磨滅したりした粗悪な銭をのことを指す。

なぜ、鐚銭が出回るようになったのだろうか?

古代・中世の貨幣鋳造

日本で最初に正式に発行された貨幣は「和同開珎」であり、708年(和銅元年)のことだった。貨幣の発行は律令国家の建設と軌を一にするものであり、唐の制度にならって国家として貨幣発行が行われた。
以後、和同開珎から数えて12種類の貨幣が平安時代中期の958年(天徳2年)までの250年間に発行されたことから、これらの貨幣は皇朝十二銭と呼ばれている。
しかし、銭貨の原料となる銅が十分に確保されなかった日本では、需要に見合うだけの銭貨を供給することができず「乾元大宝」以降、国家による貨幣発行は途切れた。

ちなみに、古代の銅山を調べてみると武蔵国秩父郡や長門国の長登鉱山が出てくるが、算出量は程度のだったのだろうか?

輸入銭と私鋳銭

貨幣発行が途絶えた日本において人々が使っていたのは、平安時代前半までに鋳造された銅銭の他、「渡来銭」と呼ばれる中国から輸入した「宋銭」「明銭」などの銅銭や、民間で勝手に鋳造された粗悪な「私鋳銭」だった。

国家として保証しない貨幣が普通に流通していたのは驚きであるが、当時の貴族政治や鎌倉、室町などの武家政権にとっては貨幣発行権は重要な問題ではなかったということなのか・・・。
別の見方をすると、貨幣を発行できるだけの権力をもった政権が、平安時代後期から戦国期に掛けては存在しなかったとも言えるのかもしれない。

撰銭令

14世紀~16世紀の室町時代ともなると、商取引の現場では悪質な私鋳銭や粗悪な渡来銭が嫌われ、円滑な経済活動が阻害されるようになったという。
さらに同じ明銭でも「洪武通宝」は本州で嫌われたものの九州では好まれたり、「永楽通宝」は16世紀前半の畿内では嫌われたが16世紀後半の関東では好まれるといったように地域差時間差が発生する状況も発生したそうだ。

室町幕府や各地の戦国大名は、悪銭と良銭の混入比率を決めたり、一定の悪銭の流通を禁止するなどの「撰銭令(えりぜにれい)」を施行するようになった。

信長の貨幣政策

撰銭令に関して言うと、織田信長は一風変わった撰銭令を発令している。
悪銭をも取り入れ、公定レートを定めた「固定相場制」を導入であり、具体的には、
①永楽通宝を基準通貨=1文
②宣徳通宝などを2枚で1文
③「破銭(われぜに)」は5枚で1文
④銘がない「無文銭」などは10枚で1文
といった内容だったそうだ。
つまり、鐚銭を排除するのではなく、交換レートを設けて価値に差をつけて利用することで貨幣不足を補うことにしたというのだ。
こうして代用貨幣として鐚銭を利用したことが、鐚銭が広く出回ることになった真相のようだ。

この政策には、「米を貨幣として使用することも禁ずること」も併せて発令されているが、背景には貨幣不足を補うために物品貨幣として通用する米が使われていたことが挙げられる。
この法令を出した1569年(永禄12年)当時の信長は、足利義昭を奉じた翌年で、高木久史氏の通貨の日本史でも「本法の布告の前年に信長軍が上洛し、布告のころから義昭の城を建て始めた。そのため京都で兵や労働者が増え、食糧需要が増えていた。」とあり、食糧としての米を確保するために鐚銭をも利用することが必要とされたのだろう。

ところで、鐚銭の利用を促したとはいえ、取引額の半分は基準銭での支払いを命じるなどして、領国に悪銭が必要以上に流入しないような措置も取っていたそうだ。




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