#17 なぜ品川が宿場町として栄えたのか?
品川と品川湊
品川は目黒川の河口付近に出来た湊町で、平安時代末期の文献に登場する。武蔵国国府と品川とは品川道と呼ばれる武蔵国南部の古道が通っていた。品川湊は、武蔵国国府の外港だったという説もある。
品川湊のあった湾は遠浅で、品川湊の沖合い(現在の東京港品川埠頭から天王洲に掛けての一帯)には、江戸に物資を運んできた大型廻船が停泊し、瀬取船などの小型廻船と荷物の積み替えが行われる場所だった。
品川沖で江戸向けの積み替えが行われた理由は、品川以北の江戸湾は浅瀬が広がっており、大型船での北上には海底地形を把握していないと困難だったからだ。
明治時代に作成された「大日本海岸実測図」の「東京海湾第1景」では、北に向かって航行可能だったのは二つの細い水路だけだったことが示されている。
歌川広重の浮世絵「品川 日之出」でも、品川沖に帆を下ろして停泊する船や帆を張り江戸湾を出入りする船が数多く描かれており、品川沖が舟運にとって重要な場所であったことを物語っている。
品川宿
東海道五十三次の1番目の宿場である品川宿は、1601年(慶長6年)、中世以来の湊町として栄えていた品川湊の近くの武蔵国荏原郡品川領(現在の東京都品川区)に設置された。
日本橋から2里(7.9Km)の距離にあり、宿場の長さは現在の北品川1丁目~南品川3丁目までの約2Kmの距離があった。東海道ではもっとも賑わった宿の1つと言われている。
品川宿は、北宿、南宿、歩行新宿(かちしんしゅく)の3町で構成され、目黒川を境に、それより北が北品川宿、南が南品川宿、北品川のさらに北にあった宿を歩行新宿といった。
歩行新宿は、品川宿と高輪の間に存在していた茶屋町が1722年(享保7年)に宿場としてみとめられた町で、宿場が本来負担する伝馬と歩行人足うち、歩行人足だけを負担したために「歩行人足だけを負担する新しい宿場」という意味で「歩行新宿」と名付けられている。
1843年(天保14年)の「東海道宿村大概帳」によると、宿内の総家数は1,561戸で宿内人口は6,890人(男3,272人、女3,618人)、本陣2軒(うち1軒は江戸中期に廃業)、脇本陣2軒、旅籠93軒、問屋場1軒の規模があり、東海道有数の宿場町町であった。
また、1843年の「宿方明細書上帳」では宿内1561戸のうち、職人128人、商人601軒が記録されているという。
江戸有数の岡場所
江戸時代特有の事情とも言えるが、江戸近郊の四宿(品川宿、千住宿、板橋宿、内藤新宿)は、いずれも岡場所(非公認の私娼屋が集まった遊郭)としても栄えた。
その中でも品川は最も栄えた岡場所で、「北の吉原 南の品川」と呼ばれたり、「吉原」を江戸の北方、「北国」と呼び、「品川」を江戸の南方、「南」と呼んだと伝わっている。
ただし、吉原にとって江戸四宿は営業上の競争相手であり、幕府に何度となく取締を訴える存在だった。
1772年(明和9年)、幕府は品川宿の飯盛女(公の営業許可を与えられていない遊女)の数を500人と定めたが実効性がないまま増加し、1843年頃の記録では、食売旅籠屋92軒、水茶屋(湯茶を飲み、一休みできる店) 64軒を数え、品川は一大遊興地として繁栄した。
1844年(天保15年)1月に道中奉行が摘発を行なった際は、1,348人の飯盛女が検挙されている。
江戸郊外の観光地、御殿山
品川宿の西の高台には、御殿山と呼ばれた桜や紅葉の見所があり、見物客などで賑わう「江戸の観光地」だった。
太田道灌が江戸城に入る前の1455年(康正元年)から1457年(康正3年)に掛けて城を構えて居住したと言われている場所だ。
江戸幕府は、1636年(寛永13年)に品川宿を見おろす丘陵地に「品川御殿」と呼ばれる将軍の館が建てられたことから御殿山と呼ばれるようになったとされる。
江戸の入り口に位置し、その見晴らしの良さから防衛の拠点としても機能していたと考えられている。
この品川御殿は将軍の鷹狩りの際の休憩所とされ、歴代将軍の鷹狩りの休息所として利用されるとともに、幕府重臣を招いての茶会の場としても利用された。
桜の植林が進められた御殿山は花見の名所となり、春には遠浅の海岸での潮干狩りも楽しめることもあって、江戸庶民の行楽の地として親しまれる地域となったといい、その賑わいは、歌川広重や葛飾北斎なの浮世絵にも描かれている。