#25 大磯宿と梅沢の立場
大磯宿
東海道五十三次の8番目の宿場である大磯宿は、1601年(慶長6年)正月に徳川家康が定めた宿駅伝馬制により、東海道の宿場町として設置された。
日本橋からは、16里27町(65.8㎞)の距離にあたる。
江戸寄りの平塚宿との間は27町(2.9㎞)と短く、一方、小田原宿との間は、4里(15.7㎞)と比較的長く、その間に徒歩渡しで有名な酒匂川があった。
宿場は江戸方より街道に沿って、山王町、神明町、北本町、南本町、茶屋町(石船町)、南台町の6町で構成されており、範囲は化粧坂と山王町の間の「江戸方見附」から鴫立庵を過ぎてしばらく行った地点にあったとされる「上方見附」までで、長さは11町52間(1.3㎞)あった。
宿場は、南側の海と北側の山に挟まれた細長い町並みで、上方に向かっては緩やかな上り坂の道が続いている。
天保14年(1843年)の「東海道宿村大概帳」では、総家数676戸、宿内人口3,056人(男1,517人、女1,498人)で、本陣3軒(小島本陣、尾上本陣、石井本陣)と旅籠66軒は北本町、南本町、茶屋町に集中し、2軒の問屋場は北組問屋場が北本町、南組問屋場が南本町にあった。
大磯宿は宿場町としては、規模が小さかったため、伝馬制度の維持のために宿場の西に隣接する東小磯村を加宿として加え、不足する人馬を調達していた。
大磯宿の規模が大きくならなかった主な理由は、江戸からの旅人は翌日の箱根越えに備えて小田原まで足を伸ばしてしまうこのが多かったこと、箱根を下ってきた人は酒匂川の渡しを前に、その疲れを休めるために小田原に宿泊してしまうことが多かったからと考えられている。
間の宿、梅沢の立場
宿場間の距離が長い場合や、峠越えなどの難路の場合に、宿場と宿場の間に自然発生的に休憩用の町場である「間の宿(あいのしゅく)」が出来ることがあった。
間の宿は宿場としては非公認の町場であって、公式には宿ではなく村もしくは町とされ、旅人の宿泊は原則禁じられていた。
そのため、間の宿には旅籠は存在しないし、駕籠や人足、伝馬を扱う問屋場もなかった。
間の宿は公役を負担していないので、幕府は宿場保護のため、間の宿での旅籠及び飯売女を禁止していたのだ。
ただし、実際にはこっそり泊めさせていた例も多くあったらしく、本来の宿場と間の宿とがもめた記録も残っているらしい。
大磯宿と小田原宿の間は15.7kmと宿場間の距離が長かったことから、間には「梅沢の立場」(現在の神奈川県中郡二宮町)と呼ばれる間の宿が存在した。
ちなみに、間の宿と立場の違いは、町場の規模とのこと。
梅沢の立場には、大友屋、蔦屋、釜成屋など多くの茶屋や商店が軒を並び、さながら宿場の体を成して賑わったという。
また、中心的存在として、参勤交代の諸大名や宮家、幕府役人向けの休憩所として「松屋本陣(和田家)があった。
間の宿が繁盛した理由の一つは、利用代金が本宿に比べて格段に割安だったからだ。
本宿は、宿駅伝馬制度の負担があるため、料金はどうしても割高になってしまう。
梅沢の場合、小田原との間に酒匂川があり増水時には川留となり、その間、経費の掛かることを恐れた旅人が割安の間の宿を利用したと考えられている。
なお、神奈川県内の間の宿は、茅ヶ崎の南湖と二宮の梅沢のニカ所あった。
酒匂川の渡し
酒匂川(さかわがわ)の渡しは、東海道五十三次道中の難所の一つで、古くは船渡しが行われていたが、1669年(延宝2年)船渡しが禁止されて徒歩渡し(かちわたり)制となっており、旅人は渡し場から手引、肩車、輦台(れんだい)など川越人足の力を借りて渡らなければならなかった。
雨が降り続き、水深が胸あたりになると、川留めとなった。川留めになると旅人は、周辺の宿に逗留せざるを得なかった。
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