上海駐在物語 エピソード4 ゴルフ6
どうも!高倉JB珈琲のらいです。
さてみなさま、いかがお過ごしでしょうか?今日の本題は、『その日は来ました』というテーマです。私は現在アルバイトをしながら高倉JB珈琲で自家焙煎のオリジナルブレンドのコーヒー豆を通信販売(powered by BASE)で販売しています。この記事は、コロナで卸の売上が無くなり、アルバイトで生計を立てながら、個人様向けに合ったブレンドをゼロから作り、事業としてゼロからどのように起ち上げていくのかを記録するために書いています。
雨が降るという予報なので準備をしたら、全く降らずに家に戻れたラッキーな、らいです。
本題に入る前にお知らせを2つさせてください。まず、毎度お馴染みとなっております、高倉JB珈琲の公式LINEについて。ココでは、新しいコーヒーのブレンド(←現在新しいブレンド開発中!毎回言ってますが、ホントに難しいんです…今回は爽やかな酸味がテーマ!)のお知らせや、キャンペーンの情報をいち早く発信していこうと計画しています(←まだ計画段階ですが、計画はあります…笑)リンクを貼っておきますのでぜひ、今のうちに高倉JB珈琲公式LINEの登録お願いしま~す!現在ご登録者35名様。ということで、100名様まであと65名!よろしくお願いします。
そして、お知らせをもう一つさせてください。高倉JB珈琲インスタグラムが、再開ています!インスタでは、コーヒー情報はやっておらず(←過去投稿ではありますが…)『コーヒーおやじ』がインスタをザ・マイペースで楽しんでおりますので、ご興味がある方は、高倉JB珈琲インスタグラムのフォローをお願いいたします。フォローするまでもないけど、一度は見にきてくださーい!今のところ、上手くリンク先に飛んでいる(←たまに上手くリンク先に飛ばない時がありますが…)ので、一度クリックしていただけますか?もし上手くリンク先に飛ばない場合は、コメントで教えてくださーい!リンク先に飛ばまい時は、インスタで『 #高倉JB珈琲 #takakurajbcoffee 』で検索してフォローしてくださーい!本日のご登録者数、82名様です!ありがとうございます!ぜひ、コメント欄に『お答え』入れてください(←ご登録者様限定の内緒コメント)と言うことで100人まであと18人!となりました。よろしくお願いします!
そんなこんなで、今日の本題です(←昨日の記事はココ)
その日は、やはり来ました。母親からの電話。お医者様がすぐに呼んでくださいと言っていると…。私は事前に上海のスタッフへはもちろん、日本の本社へも事情を伝え、いつでも帰国できるような準備はしていました。それでも、帰国するまで3日を要しました。すべての準備を整え、お手伝いさんにも事情を伝え、オーナーさん、上海でお世話になっている先輩社長さん達へご挨拶をすませ、一時帰国をしました。関空から直接実家へ行くと、すぐに病院へ行くように言われましたが、「車がない!」と叫んだのを今でもハッキリ覚えています。なぜかと言うと、離婚する時に自分の車も処分(←売却)したからです。妹に冷静に「お父さんの車があるやん!」とツッコまれました(笑)
私が病院へ着くと母親と親戚の叔父叔母が病室にいました。まだ、個室ではなく大部屋にいたので、少し安心しました。個室に移されるともう長くはないということは、私が事故で入院して居る時(詳しくは『1巻の224ページ』)に知っていたからです。夕方頃のため、主治医の先生がいらっしゃらなくて次の日に先生から現状と今後についてのお話をお聞きすることになりました。
次の日、私、母親、妹夫婦の4人で主治医の先生のお話をお聞きしました。レントゲン画像を見ながら詳しく説明していただいていましたが、全く私の頭には入って来ませんでした。この情報は私以外はみんな知っているらしく、私が帰国したので、先生が最初から説明してくれるということでした。私は、今もその説明を思い出すせず、ただただその説明の時間が長く感じていたのを覚えています。私の右側から太陽に光が差し込んでいる風景が記憶に残っています。一通りのご説明を終えて先生は「大変良い難いのですが、我々にはもう痛みを和らげることしか処置する方法が出来ることがありません。あとはご本人の体力の問題となってきます」と何とも濁した言い方だったので、私はハッキリ聞くことにしました。
私:「先生、ザックリあと何日持ちますか?」
先生:「私の口からあと何日とは…」恐らく、何日と言ってそれよりも早くなって問題にされるのを恐れているからなのでしょう。
私:「先生、先生を後で責めるとかはありません。あと何日必要ですか?我々もそれぞれの生活があり、私もお聞きだと思いますが、職場は上海なんです。その何日間をどうやってみんなで自分達の生活や仕事をしながらやりくりするか話し合う必要があるのです。だから、ザックリで良いので教えてください。でないと我々の体力も続かなくなってしまいます」
先生:「分かりました。ながくても1週間位だと思っておいてください」
私:「1週間ですか。分かりました。ありがとうございます。よろしくお願い致します」
先生:「出来る限りのことはさせていただきますので、何でも仰ってください」
私達4人は、それぞれこれからの1週間をどうするか打合せをした。妹夫婦には、甥っ子がまだ小さかったので、自分達の生活中心に生活を回して、私や母親が出来ないことのサポート側に回ってもらうことにした。誤解を恐れずに書くと、親父が亡くなった時に頼れるのは、妹夫婦が中心となる。当然私が喪主となり、すべてを仕切る側になるので、手となり足となってくれる人材が必要で、母親にそれは期待できないからだ。親父がもうすぐ亡くなるというのに、なんと冷たいヤツだろうと思われたと思います。でも、今まで私が日本に居ない間に彼らにはどれだけ負担を掛けたかを考えると、私が日本に居る間だけでも、少しでも良いから普通の時間を持って欲しいという想いがありました。なので、見舞いも「来たいと思ったら来てくれたらいいから」と毎日来る必要なんてないからと念を押したのですが、毎日来てくれました。たとえ30分だけでも…。
その次の日に親父は、個室へ移動することになりました。痛みがひどくなり、モルヒネを注射しないとベッドでのたうち回るほど痛がるので、他の患者様にご迷惑が掛かるという状態になったが大きな理由だと看護師さんは言いましたが、私は『いよいよその時が近づいている』と理解しました。個室に移ると完全看護の病院でしたが、交代で付き添って病室へ泊まるスケジュールを組みました。夕方から朝、朝から夕方の2交代制でシフトを組んでいました。基本は母親が夜、昼が私で間に妹が入る感じにしていました。
私が初めて夜付き添う登板の日、私は本を持ってくるのを忘れたのを覚えています。親父は24時間モルヒネで寝ています。途中看護師さんが来て様子を診て頂く程度なので、実際私がすることはありませんでした。親父のベッドの横に付添い用のソファベッドで私は当時まだガラケーで当時付き合っていた彼女(←離婚成立後に付き合っています。その点ちゃんとしている、らいです)とメールのやり取りをしていました。で、夜も深けた頃、親父が吐いたのです。私は慌てて看護師さんを呼んで、家族に連絡を入れた方が良いかどうか確認しました。どうやら、痰が詰まったのが原因らいしく、血圧も安定しているので、「『今夜は』大丈夫です」と言われたので、誰にも連絡せずに、ベッドのシーツや親父の病院服を着替えさせてくれている看護師さんにお礼を言うしかない自分が、恥ずかしい思いでいっぱいになりました。看護師さんは、「会話ってちゃんと聞こえているので、いろいろとお話をしてあげてくださいね」と仰ったので、看護師さんに話をする程をお借りして、私は親父に「往生際が悪いのは、カッコ悪いぞ!って言ったんです。コッチは大丈夫やから、往生際が悪いことだけは辞めてくれよって」と言いました。
次の日、親父は亡くなりました。私が言った言葉を親父は聞こえていたのでしょうか?
家族がいない私の往生際の時に回りには、誰もいないと思うのですが、『本当に聞こえているのか?理解できているのか?』その時が来たら確認したいと思っています(←ザ・この世の最後の課題)
親父が亡くなって依頼、ゴルフ道具を見る度に『親父とやりたかったゴルフ』という感情が出てくるので、私はゴルフをしようともしたいとも思ったことがありません。なので、私はゴルフを応援することはあっても、自分がすることはありません。
完
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