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コロナ禍でまちおこしイベントや地域行事がことごとく中止されている。

毎年○○万人来場していたイベントが実施できなくて収益が下がってしまった。

毎月やっていた行事ができなくて人気(ひとけ)がなくなってしまった。

いろんなネガティブな光景が連想される。

ほとんど人がいない田舎の道路。

ガラガラの商店街の光景。

政治や行政の世界において、まちおこしイベントや地域行事を、地域振興の分野として整理している。

例えば、イベントの「来場者数」やそれに伴う「経済効果」を指標として、どれだけ地域活性化が実現されたのかを公表したりしている。

「田川市で行われている川渡神幸祭には毎年数万人の人が訪れていて、出店と呼ばれる露店では数千万円の売り上げがあります」そう言われれば、地域が活性化しているな、と感じるきっかけなるだろう。

そして、地域活性化の具合は「○○万人が来て、○○万円売り上げた」という公表によって、世の中に知らされている。

その数値が大きければ「この地域は活性化しているな」と判断され、逆に数値が小さければ「この地域は活性化していないな」と判断される。

ちなみに、そのような「地域を活性化させる」とされている「まちおこしイベント」や「地域行事」は「地域づくり」と呼ばれたりする。町おこしイベントや地域行事が継続されていれば「地域づくりが出来ている」と判断される、ということになる。

ところで、地域は、そもそも何のために「地域づくり」をするのか?

まちおこしイベントをやって○○万人を集客し、○○万円を売り上げることは、何のためなのか?

集客数と売上について考えた時に、年一回行われる「まちおこしイベント」による集客で得られる売り上げをアテにして、商店を経営するのは、どう考えてもリスクがある。それが、月一回でも同じような気がする。

つまり、町おこしイベントは、地域にある商店の売り上げを継続的に向上させるために行っているわけではない。

では、地域づくりは、何のためにやるのか。

おそらく「それぞれのイベントや地域行事によって、それぞれ目的がある」というのが答えだろう。

そして、もし仮に、その目的が、集客や売上ではないのなら、そのイベントに伴う集客や売り上げは、その本質的な目的に「付随する成果」であることが多いと考える。

「付随する成果」は、いいことであるように思える。

地域により多く人が来て、より多く売り上げたほうが良い。

なぜ?

これについて、なぜ、と尋ねることが、ポスト資本主義のOSへの移行あると僕は考えている。

僕の住んでいる地域には、「溝掃除」という住民から最も忌み嫌われた地域行事がある。

その日、地域住民はスコップをもって生活用水を川に流すための溝に入り、その溝に落ちたゴミを拾い、溝底に繁殖した藻を掃除する。

この溝掃除をしないと、大雨の時に、水が適切に流れずに、溝からあふれて、家屋の浸水の原因になってしまったり、藻が堆積して悪臭を放ったり、地域に暮らす人たちにとって良くないことが起こってしまう。

だから、年に一回、地域行事として、「溝掃除」をする。

「溝掃除」では、毎日挨拶だけを交わす近所の人たちと小一時間作業をする。「今回はゴミが多いね」とか「思ったより藻が少ないね」とか、他愛もない話がメインだが、「子ども、すごく大きくなったね」とか「もう自転車に乗れるんやね」とか身の上話に発展したりする。

ありがちな話で恐縮だけど、こういった会話が、日ごろの安心な暮らしにつながったりしているなあと、僕は実感している。

「安心な暮らしにつながること」は付随する成果だ。

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