いいかねPaletteについて
田舎の希望
「この地域で、若い人たちだけで、こんな大きな施設を運営することは、初めてなので、とても期待しています。」
2017年4月1日、いいかねPaletteのオープニングセレモニーに招待された僕は、取材に来ていたテレビ局にインタビューを受けたとき、そう答えた。
その答えは、いいかねPaletteに対する希望を表したのと同時に、田舎の地方公務員として働いている僕にとって、可能な限り皮肉を込めたつもりだった。
田舎では若い人が希望を抱けない。
それが、感染症の流行で社会状況が変わってもなお、東京一極集中が続いている今の日本の現状の根本的な要因だと、大学生活4年間を除く33年間、田舎に暮らし続けている僕は思っている。
田舎において「経営」や「運営」の目線は、いつでも「既得権益」と「忖度」のメガネをかけている。
衰退する田舎が生き残る術は、「既得権益」もしくは「税金」に頼る以外にない。田舎では、そう思っている人たちが多くいる。
そして、その多くの人達がその事実を加速させ、その事実に依存し、そのことが若い人たちの「挑戦する意思」と「希望」を削いでいく。
だから、その文脈上にない、いいかねPaletteは、僕の希望であり、田舎に暮らす若い人たちの希望であると、僕はずっと信じている。
そのいいかねPaletteを同級生や先輩がやっていることは、とても嬉しいことだった。
2018年の夏のこと
いいかねPaletteの立ち上げから携わっている同級生の青柳から電話が鳴った。
一緒にやっているバンドの話のついでに、彼が話したのは、いいかねPaletteの運営がやばいかもしれない、ということだった。
色々なことが頭をよぎり、自分に何が出来るのかを考えたが、出来ることはほとんどなかった。
それからしばらくして、スタッフ全員が雇用できなくなり、樋口代表だけになったと青柳が教えてくれた。
青柳は、無給でいいかねPaletteに残った。
バンドの練習の時、青柳は「スーパーボランティアという肩書になった」と笑いながら言い、僕らは「マジか!やばいね!」と笑うしかなかった。
笑うしか出来なかった。
青柳に他のスタッフの再就職先について相談を受けたけれども、僕はまったく力になれなかった。悔しかった。
あとになってから、他のスタッフたちも一定期間、ボランティアをしていたことを知った。
それから、樋口代表と青柳と残ったスタッフたちは必死でいいかねPaletteを立て直そうとしていた。
コテンラジオが始まったのは、その頃だった。
コテンラジオ
いいかねPaletteで樋口代表に会うたびに「コテンラジオ、やばいっす。マジおもしろいっす」とテンション高く話しかけた。樋口代表は「いや、そうなんよ。クソおもしろいんよ」とテンション高く答えてくれた。
いいかねPaletteを背中に背負っている樋口代表の大きすぎる重圧は、僕の想像を超えているに違いないが、コテンラジオのおもしろさを同じテンションで話してくれたことが、嬉しかった。
そして、コンテンツにはそのような力があるとも感じた。
背負っているものや、しがらみを抜きにして、共感し、楽しめる。おもしろいコンテンツには、その力がある。
コテンラジオは樋口代表が深井さんとヤンヤンさんに出会い、その時に樋口代表が「絶対におもしろいものが作れる」と信じて始まったコンテンツだ。
コテンラジオが持っているコンテンツの力は、今、聴いているほとんどの人が感じているはず。コテンラジオは、サポーター(現在はコテンクルー)、コテンコミュニティなど、多くの人を巻き込んだ。
そして、いいかねPaletteはコテンラジオの聖地と呼ばれるようになり、コロナ禍にあっても、その勢いはさらに強くなり、現在に至っている。
やりたいことをやる
「やりたいことをやる、それしかないんだよ」
コテンラジオの深井さんがよく言っている言葉。樋口代表や青柳やいいかねPaletteのスタッフたちは、色々なものを背負いながら、それを体現している。
いいかねPaletteが生まれてから、田舎で暮らす僕に希望が生まれた。
それ以来、やりたいことをやりたいとずっと思っている。そして、コテンラジオが始まってから、その想いは強くなった。
さらに、今、その想いを持った人がいいかねPaletteに集まってきている。長期滞在や施設利用の人たちのエネルギーはすごい。やりたいことをやるから、エネルギーが出ているのだと思う。
ようやく僕もいいかねPaletteでやりたいことをやろうと思っている。
今まで貢献したくても出来なかった悔しさを少しでも晴らせるよう、いいかねPaletteの火に油を注ぐような、あるいは、新たな種火をつけるようなことをしようと思う。