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2021年7月14日、クリスチャン・ボルタンスキーが亡くなった。76歳だったそうだ。ボルタンスキーは世界的なアーティストだった。

もうボルタンスキーの新作を観ることはできない。新しいインタビューを読むことはできないし、何かについてのコメントも聞くことはできない。

2019年の秋に長崎県美術館の「Lifetime」という回顧展を観に行った。

その前は、2015年の冬に豊島の「心臓音のアーカイブ」を観に行った。

一緒に観に行った妻は、大学の時、「記憶」や「形跡」をテーマにした作品を作るため、ボルタンスキーについて勉強したらしい。

結婚する前、妻がボルタンスキーについて話をしてくれた時、僕は興味を持って、いつか観に行ってみたいと思っていた。

それで、2015年の冬、妻と友人と豊島に「心臓音のアーカイブ」という作品を観に行った。

「心臓音のアーカイブ」は世界中で集めた心臓の音に合わせて、裸電球が点滅するインスタレーション作品だ。

作品の中に入った時、めちゃくちゃ感動した。

僕が作品に感じたのは「魂」だった。

「魂」は霊的な文脈やスピリチャル的な文脈でよく使われる。しかし、時折、「魂のこもった作品」とか「このサービスには魂がある」とか、実在する概念のようにも使われる。

ここで言う「魂」は実在する概念のことだ。

魂は目に見えないが、感じることはできる。人は、時に、魂を作品の中で感じたり、文章の中で感じたり、サービスを体験することで感じたりする。

魂とは、情報に宿った、エネルギーだ。

「心臓音のアーカイブ」は、音と電気と空間という情報によって、そのエネルギーを再現したものだった。

これが魂だ、と僕は思った。

素晴らしい作品には、魂がある。意図して、または、意図せず、作品には魂が宿っている。僕は、魂が宿った作品は、いい作品だと感じる。

魂は情報に宿る。作品は情報だ。視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚で感じる情報である。

作家の表現として、作品は制作され、鑑賞者である僕らは五感において、作品の情報をインプットする。

その過程において、僕らは魂を感じる。

2019年秋の長崎県美術館での「Lifetime」という回顧展で、僕は、ボルタンスキーが「観る人にどうやって魂を感じさせてきたのか」ということついて考えながら、作品を観覧した。

そして、現時点では、「強靭なプロット」にそれがあるのだと僕は考えている。

黒い古着を山のように積んだ「ボタ山」というボルタンスキーの作品があった。回顧展の中で観ることができた作品であったが、この作品について、黒い古着である部分が外側の部分だけであるという情報があった。

展覧会を観に行った後、いいかねPaletteに遊びに行った時、施設にあるtascoffeeの店主りゅうちゃんとその話になった。

「すごく微妙だと思った」と言ったりゅうちゃんに対して、僕は「微妙かもしれないけど、見える部分と感じる部分がすべてだから、別に良いのかなーと思うけどね」と話した。

その後、何故、自分がそう思ったのかを考えた時「ボルタンスキーの作品には強靭なプロットがあるからだ」と思った。

ボルタンスキーが生み出した作品の「強靭なプロット」には魂が宿っている。

これは、インスタレーション作品を持続可能なものにする。

おそらく、僕らは、また、ボルタンスキーの作品を観ることが出来る。

新しい作品を観ることは叶わないが、ボルタンスキーの魂は、「強靭なプロット」に宿り続け、それは、他のアーティストにも影響を与え、遺伝する情報である「ミーム」として、未来に残っていくことだろう。

ご冥福をお祈りします。




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