村井邦彦さんゲスト回Daisy Holiday! 2023年7月10日
Daisy Holiday! 2023年7月10日
ゲスト村井邦彦さん
細:はい、こんばんは細野晴臣です。 今日はですねえ、ここに来る人の中で珍しい重鎮ですね。 村井邦彦さんいらっしゃい。
村:文鎮の村井邦彦です。
細:いや文鎮じゃない重鎮。
村:いや、久しぶりですよね。
細:本当ですね。 Zoomで過去2、3年に1、2回話した。
村:そう、Zoomでね。話したけど。
細:あのモンパルナスの1934。キャンティ前史と。
村:ありがとうございます。覚えてってくれて。
細:いや、あの全部まだ読んでないんですけど。自分が出てくるとかだけ先に読んで。ええ、懐かしかったですけどね。 とにかくあのYMOの責任者って言っちゃあれだけど、張本人ですよね?
村:そうですよね。まあ2人で始めたことですよね。
細:最近、川添さんも加わってますけど。
村:そうだね、はい。
細:その時のことすごいよく覚えてるんですよ。突然なんか声がかかって芝浦のアルファのビルに。で、社長室に行ったんですよね。
村:そう。
細:いきなり契約しようかと。
村:あ、そんなことしたの僕?
細:そうですよ。 あれ覚えてるでしょう?
村:いや、契約書のシーンは覚えて。
細:いや契約書はないんだけど、口頭でプロデュース契約しないかと。
村:うんうん。
細:あと最後に英語でなんかおっしゃったんですけど。まあ、それちょっと覚えてないです。
村:それはね、細野君から聞いて、僕が覚えているのはI can do anything for youって言ったんで。
細:うん、それだ。その声で聞くの久しぶり。 あのセリフはあれでしょ? 村井さんが尊敬してた、あのハリウッドというかロサンゼルスの誰でしたっけ?
村:ジェリー・モス。
細:ジェリー・モスだ。
村:ああいう人たちよく言ってたね。
細:ハリウッドっぽい用語ですよね。
村:そうだね。
細:最近はずっとロサンゼルスに居住されてて、今は東京ですか?
村:いや、えっと。 1991、2年にロサンゼルスに引っ越して、そのまんまになっちゃったね。 最初は音楽出版社をやったんですけど、その出版社を売っちゃって、本当は日本に帰ってきても良かったんだけども、子どもたちがもうアメリカの教育システムに入っちゃったから。でまあ、こんな仕事だからどこにいたって同じだと思うんでであの居残っちゃったのよ。
細:今はたまたまこちらにいて、またお帰りになるわけね?
村:もう明々後日ぐらい、ええ帰っちゃっう。あえてよかったよ。
細:どうなんですか今ロサンゼルスって?
村:もう世間のことはわからない。なぜかというとさ、コロナだったでしょ?
細:そうそう。
村:だから人に会ってないからね、何やってるかわかんない。それから僕たちと同じ年代のジェリー・モスとかハーブ・アルパートとか、まあハーブ・アルパート、まだ元気でね。でかい彫刻作ったりね、演奏会もやってるみたいなんだけど、ジェリー・モスなんかうんと年取っちゃって、あのあんまり元気がないんですから。特にこうコロナになると会うと伝染るんじゃないかっていうていうことで電話で話したりはするけども、会う機会が少なくなって。
細:世界中そうだったんだね。
村:そうだね。
細:こっちもそうですけどね。
村:僕の知ってるミュージシャンたちもどんどんどんどん年取っていっちゃうし、若い人とあんまり付き合いがないし若い人の音楽聞いてもよくわかんないし。 それで小説なんか書き出しちゃった。
細:あれはいつからお書きになってたんですか?
村:ちょうどコロナが始まる寸前に、ブループリントっていう出版社の社長と編集者がわざわざロスまで来てね、なんか書いてくれって言われて。それでね、前から書きたかったのは川添浩史さんのこと。象ちゃんのお父さんだよね。この人には若い頃からすごく影響を受けてたから。彼の人生、若い時代のことを書きたいなと思ってで本人からの断片的ないろんな話を聞いていたし、その川添さんに紹介されて、仲小路さんっていう細野君も会っている歴史哲学者の話も聞いていたんだけど、ちゃんと研究して歴史とまだ生き残ってる人の話を聞いて、それでもね、材料が足りないんで、あとはちょっと小説にして自分の想像力で。この時川添さんだったらなんていうかな?とかこういうことを考えて小説にしたんですね。
細:なんか最後に川添さんが病室にいて、そこを村井さんが訪ねていて、なんか一言をもらったっていう、あれがすごいドラマチックでしたね。
村:うん、そう、あのね、本当に亡くなるっていうふうに全然思ってなかったんですよ。
細:うん。
村:まあ一時的な入院かなと思って、こっちは気楽に行ってお話をして、その翌日か翌々日に。亡くなっちゃったんですよね。
細:ああそうなんだ。あ、そういうことだったんだ。
村:それが1970年の1月。だからね細野君と僕があったのその前後だと思うんだ。
細:いや前ではないですよ。
村:後か。そうか。「ヘアー」ってのいつ始まったの?
細:あれいつだっけ?72年かな?
村:71年か2年かその辺かな?
細:うん。あの時代はもう一年ごとに大きな変化していくから記憶がないんですよね。
村:71年だとして、川添さんが亡くなった後に、川添さんの広尾の家に行ったら、そこに小坂忠と細野君がいて、川添の象ちゃんのフラメンコギターを細野君が弾いてて。
細:そうそう。 そうなんですよ。 そのフラメンコギター今でも家にあるんですよ。
村:あ、そうなの?
細:買ってくれって言われて。自分はもう弾けないんだって
村:後でちょっと弾いてよ!
細:最近全然触ってない
村:そうなの?それでなんて素晴らしい音なんだろうと思って
細:それギターがいいんですよ。
村:ギターがいいんじゃない、弾く人がいいんですよ。いろんな人に言うんだけど、どう違うんですかってどう違うったってさあ、ドミソって弾いただけでね、 細野が弾くと違うんだよって。
細:わかんないなんなぁ
村:なんなんだろうな? ベースを弾いてもそうだけど。 弦を触る圧力とか、自分もちょっとしたこととか、それを感じ取る感性とか、そういうのが特別なんだよねきっと。
細:弦に親しみがあるのかもね。
村:そうかな、他の人には絶対しない音がする
細:いや、そうかな自分ではわからないんですよ、本当にうん。
村:それでなんかもう大細野ファンになって、それで時々スタジオでベース弾いてもらったりなんかして。
細:そうですね。
村:なんかして、そのうちユーミンのひこうき雲やってよって。
細:電話がね。僕が狭山にいたころですよ。村井さんから電話もらって電話口で、「荒井由美という女の子がいるからプロデュースしてくれと。いいですよつってなんだかわかんないけど。なんでも受けちゃうって。
村:そしたら松任谷連れて現れたんだよね?
細:そのころキャラメルママっていうグループやってて林立夫、鈴木茂と松任谷正隆4人でやってたんですよ。 そこでアルファのスタジオ行ってリハやったりもしたんですけど、一曲録ったら我々としてはすごく満足して。でもユーミンはすごい不安そうだったけどね。
村:あのね、ユーミンは最初自分のバンドでやりたいとか言ってたので僕だめって言ったの。あのなんていうかな?やっぱり最高のクオリティのミュージシャンと一緒にやってもらわないと困るしといって無理強いしたんだけどね。 不安だったのは彼女は何かそういうブリティッシュロックみたいのが好きで。
細:そうプロコル・ハルムが好きで。
村:うんうん。
細:キャラメルママはもうアメリカミュージックばっかりだから。
村:そうだね。でもそういうなんかブリティッシュだとか、アメリカンだとかっていうこととは別に、音楽のクオリティが高くないと僕が嫌だからそれでやってもらったね。
細:まあ、それが功を奏した。
村:ねぇ、いいのできたもんね。
細:もうそういうなんかそういうことはね、覚えてますね。 スタジオの中は覚えてるんですよ。
村:うんうんうん。
細:他のこと全部忘れましたけど。
村:それでマンタは最初からユーミンを好きだったの?
細:いやいや最初そんなことなかったですよ。
村:最初そんなことなかったの?
細:徐々にですよ。結構長くレコーディングで付き合ったわけでね。いつのまにかお二人は。。。
村:でこっちは片側一個できちゃったわけね。 それで、細野君となんかやりたいななんかやりたいなと思ってたけどクラウンと契約しちゃって。 アーティスト契約はできないと。それでじゃあプロデューサーやってもらって
細:それでプロデュース契約を。
村:それで好きなレコード作ってもらおうと。
細:一年ぐらい何にもしなかったですよね。
村:そうですか? リンダ・キャリエールやり出したのはもっと後?
細:一年経ってないか半年ぐらいでやりだしたのかな? なんかやらなきゃと僕思ってて、村井さんから提案があってあのアメリカ行ってオーディションして歌手をプロデュースしないかって。すごい話だなと思って。
村:それはね、細野くんの記憶で僕の記憶は
細:違うんだ。
村:「あの村井さんね。 僕はクレオールのね文化とか音楽に興味があるんだ。クレオールの歌手いませんか?」僕の記憶だって正しいかどうかわかんないんだけど、僕の記憶がそういうふうに細野君に言われて。それでロスの知り合いにクレオールのね、ニューオルリンズ出身の歌手どっかにいないかな?いますよって。
細:ロサンゼルスは多いだろうね。
村:それでリンダ・キャリエールをよんできて。 これ写真見たら思い出したんだけど、この間日経新聞に私の履歴書っていうの書いてね。それでいろんな過去の写真を整理してたら細野君、長髪でひげやってて、僕はまあ長髪だけど、まあ普通のおじちゃん。
細:長髪でしたっけね?
村:でリンダ・キャリエールが真ん中にいて場所はねビバリーヒルズホテルのプールサイドのね椅子のとこ。それで僕と細野君がリンダのほっぺに向かってチューってしてる写真が出た。
細:出だしはよかったのにね。
村:彼女も可愛い顔してて。
細:ボツになってしまいましたけどね。
村:録音して僕はいいと思ったんだけども、A&Mの連中にねこれ、アメリカで大々的に売り出さないかって言ったら、いやーちょっと詞がどうのこうとか。
細:あの歌詞が癖がありますよね?
村:癖があるのそっか?
細:脚本家の方ですよね。三島由紀夫の映画アメリカ版の作った時の脚本家です。
村:ああ、そうか。 それでなんかあんまりA&Mがいい顔をしなかったからね、それでせっかく村井・細野で始めたプロジェクトで全世界でドーンと売って出すには無駄玉打ちたくないっていう感じがあって。じゃあもうこれは下げてまた別のプロジェクトやろうってさげちゃった。
細:みんな関わった人、みんなすごいショックでしたけどね。
村:うん、まあかわいそう。 日本だけでも出せば良かったんだね
細:そうですね。ずいぶん前、数年前かな?もう一回出そうかっていう話があったと思うんですけどね。
村:うんうんうん。
細:今は出せないんですか?
村:いや、出せるような方向にね。
細:お願いしますよ
村:チャーリーがやってるよ、いろいろ。
細:出しましょう。 あれはもうね。すごいいい出来なんですよ
村:ほら、よかったねチャーリー。そうなんだよね。
細:まあ、今も亡き友達がみんな参加してますし、佐藤博。
村:そうか、佐藤博。 まあともかくサウンドとかレコードのあの音楽の出来は最高だったんだけど、僕にはわからない英語の詩の問題が出てきてそうなっちゃったと。
細:出せるといいなと思ってました。よかったよかった。
村:それでその後イエロー・マジック・バンドっていうのをやって。
細:そっちが始まっちゃうんですよね。 からそれがボツになったおかげかもしれないですよね。
村:そうなんだよ。あれにとっかかっちゃったらそっちに行かなかった。
細:ええ、確かにそうだな。
村:そうそう。 イエロー・マジック・バンドの中には、もうYMOの構想のかなりの部分がもう入ってたよね?
細:まあ少し名前とかね。イエロー・マジックっていう。
村:少しだけ?
細:でも音楽はその後の数カ月で変わってくるんですよ。
村:どういう風に変わっていったの?
細:シンセサイザーをコントロールするコンピューターのね。冨田勲さんのアルバムで、これはすごいと思ったんですよ。 月の光っていうドビュッシーの。
村:うん、僕もよく聞いたね。 すごいよねうん。
細:それで可能性感じてどうなってるんだろうと。コンピューターをマニピュレートしている松武さんを探して会って一緒にちょっと仕事したりして。そこからですね。それは何か月かの間に起こったことかなと。同時期に坂本龍一君も松武さんとコンタクトしてたんですよ。
村:ははぁ。じゃあ、松武さんを通じて龍一と、あのそういうこと一緒やるっていう。
細:そうでもないんですよ
村:そうでもないんだ。
細:その後で知ったんで、ええ。 スタッフ同士で人を集めてもらっていろいろこう。 幸宏はすぐ飛んできてくれて、坂本君はちょっといやいやながら来て。 でずっと迷っていたんで。 あのなんか色々まあ駆け引きっていうんじゃないけど、そうことを言って参加してもらって、そこからですね。
村:録音の第一曲目っていうのは何だったの?
細:ファイア・クラッカーですね。
村:ファイア・クラッカーか。タッタカタッタじゃないなんだっけ?ファイアークラッカーはクラウン時代にも出してた?あれが初めての。
細:いえいえ、初めて。 ただ、あのマーティン・デニーの作品だったんよくは聞いてましたけどね。エキゾチックサウンドを僕はそのクラウン時代やってたんで、そうではなくてテクノでやろうとうテクノということで
村:テクノのファイアクラッカー
細:最初。、生で一回録音してんですよ。
村:あ、そうなんですか?
細:全然面白くなくて、あれがでも最初のきっかけになったですよね。スマッシュ・ヒットしましたね
村:その時はもうすでにアルバムを作ろうということで。
細:もう矢継ぎ早にもう次の段階にアルバム作りに入ってて。
村:うんうん。
細:そこら辺を村井さんはどう?
村:僕はもうあんまり関連してなくて、世界中飛び歩いていて、むしろA&Mのポリスを日本のどう売るかってそういうのにすごく忙しくて。
細:そうですね。 ああ、そうだ、うん。
村:でも会社行って時々あのスタジオに行くとなんか床に線がさ、100本も200本もバーって張り巡らされてさ、で音楽が聞こえないんだよ。ピー!とかさウー!とかさ。 あれは何なんですか?シンセサイザーで音を合成して作っていたんですか。
細:そうです。
村:ていうことは手作りで、今もうありものになっているような音を一個ずつ音を作っていたという?
細:そう、ありものってのはなかったんです。
村:ありものがないから全部作るわけ。
細:合成していくんです。
村:パーツをね。
細:つまみを回してね。
村:すごい時間かかったでしょ?
細:もう時間を忘れるぐらい楽しかったです。
村:その音を作っていくのが?僕みたいなせっかちにはとてもできない。
細:いや、僕だってそれはせっかちなんです。
村:そうなの? それでも好きなんだということ?
細:それだけは別ものなんですよ。
村:例えばさ、その自分の気に入る音を探していくときにどういうプロセスで探しているの?
細:いや、別にね。 目標はないんですよ。 ただ、おもちゃみたいなもんですから、いじくり回しているうちに、いい音になってきたりするんですよ。 そこは狙い目っていうか偶然できた音が「あっこれだ!」っていうんでレコーディングしたりするんですよ。
村:リズムも作っていくわけ。
細:リズムの方が割と簡単で当時、MIDIができた頃か?MIDIっていうシステムで同期させることができて、シンセサイザーをいじくり回してパーッカシブにして、それであのシーケンサーで動かすっていう。 でも最初からでも幸広がドラム一緒に合わせて生でやってましたけどね。
村:最初から合わせちゃう?
細:普通のドラマーは合わせらんないんですよ。 嫌だって言うんですよ。 あのコンピューターと一緒にやるのは嫌だっていう。幸宏は喜んでやるんです。ぴったり合うんですね。
村:どうしてそういうことができるんだろう?できたんだろう?
細:ロボットだからかな?
村:なんかYMOのレコード聞いてるとそのコンピューターが出しているリズムと、あの幸宏のリズムがちょっとずつどっちかが先に行ったり、後ろに行ったり揺れがあるように感じるけど、そういうことはありますか?
細:それは許容範囲ですね。
村:許容範囲のなかで。
細:そこにやっぱり幸宏のフィーリングがあるんで、ぴったりとあってたら機械と同じなんで。
村:そうだよね。 それはさ、幸宏が意識してやってるのかな?
細:いや、自然にそうなるんです。自然ですね。 意識するとできないです。
村:そうか、あの辺がね、絶妙で今聞いても面白いなぁって思って。そこに細野君の独特のベースのリズムがでてきたり、すごいユーモア感も出てきたりで、そこに坂本が入ってくると、そのクラシックの人独特の対位法のような流れがね。
細:絶妙ですよね。
村:うん、絶妙だったねうん。面白かったね?
細:面白かったですね。
村:僕はね、あのグリークシアターのねアメリカの初のコンサート行ってないで日本にいたんだよね。 で川添の象ちゃんが担当。
細:あの本に出てますね。
村:そうそうだから、映像では現場見てるけど、実際の現場に行ってなかったんだけど。
細:現場は川添さんが仕切ってました。
村:面白い話もたくさんあるんだけど、聞いてる本人としてはグリークシアターの観客の反応どうでした?
細:ああ、どう思ったかな? なんか目の前の作業に集中してて。 結構神経使うんでコンピューター生で演奏してるわけですから暑さに弱いし。 すぐ飛んじゃうんですよねメーターが。そういうことを気にしながらなんか集中してたんで、全然お客さんのことわかんない。
村:あ、そうふーん。
細:で後であのすんごい歓声が聞こえてきたんで。 川添さんの策略もあったっていう話を後で知って面白かった。
村:あのなんて言うんだろ? そういうオーディオの係を買収したんで。
細:そうそうそう。それ聞いたのは最近ですからね。
村:あそう?
細:知らなかったっつってね。
村:いやー懐かしいな。
細:懐かしいです。 大変でしたけどね。
村:やる方はね。
細:っていうか最初に村井さんに箱根の温泉に誘われて。
村:いったね。
細:大浴場に入ってお話をした時に。 まあだいたい概ねできてきたんですけど、そういうことを本気で進めようかと提案されたんですよ、村井さんから。 でも終わる時も全く同じで、やっぱり温泉で。
村:そうだったっけ? 終わるときはどこの温泉だったの?
細:やっぱり同じだったんじゃないか? ひょっとすると行きつけの。
村:富士屋ホテルの向いのところ。
細:そうそうそう。いや村井さんもですよ。村井さんと温泉です。
村:あそうか。懐かしいね。
細:疲れただろう、そろそろ、もうやめろうかみたいな話になったんですよね。
村:そうだね。
細:話を戻すと、モンパルナスのあの本に村井さんの記述でね、川添浩史さんと岡田太郎さんという歴代の大物がそこに集まってキャンティで会議してるんですよね。
村:その最後ね。
細:で大阪万博の話をしている。
村:そうそううん。
細:なんでそこにいたんですか?
村:僕が?
細:おいくつだったの?
村:僕はだからえっと大阪万博の時はもう25歳ですね。
細:一番若いわけでしょ?
村:一番若くてもうアルファをスタートしてたんで
細:もうしてたんだ?生意気な
村:生意気っていうのはそうそう、それでこれはねすごい話なんだけど。1937年にパリ万博があったんですよ。 でそのパリ万博の時に坂倉準三が日本館っていうのを作って、それでグランプリを取るのね。
細:はい、そうすでね。
村:でそれまで万博に日本館ていうのはたくさんあったんだけど、それ坂倉さんがやる前はね、もう神社仏閣みたいなね。お城みたいな、銭湯みたいの作って日本館ってやったんだけど、坂倉さんはル・コルビジェの弟子だからすごい近代建築なんだけれども、借景っていう日本のあの建築の考え方ね。西洋の建築家は道路に面してファサードを作るっていう普通なんだけど、彼はなんかエッフェル塔を借景にして建物を作るとか、日本的なあのアイディアでしかし、そのル・コルビジェ譲りのあの近代建築の感覚でつくってグランプリを取るわけね。
細:なるほどね
村:でその時ねともかく、世の中はソ連のスターリンとドイツのあのヒットラーがもう世界中引っかきましてるわけですよ。
細:うんうんうん。
村:でそのドイツ館とソ連館というのは向かい合わせで立っていて。 その横にね、スペイン館っていうのがあって、それでスペイン市民戦争でもって、ドイツ軍がゲルニカを空爆するわけだよね。で一般市民がたくさん亡くなってそれをモチーフにピカソがゲルニカっていう絵を描いて、それをスペイン館に飾るわけだ。それを、坂倉、川添、岡本は見るわけですよね。
細:うんうん。
村:でもう一つね、これ、あの歴史の史実を研究しててわかったんだけど、あのオリヴィエ・メシアンがあのオンドマルトノっていう楽器を使ってセーヌ川でコンサートやってるわけ。
細:メシアンというのは現代音楽の巨匠です。
村:そう、巨匠。でそのオンドマルトノていうのは原理的にはシンセサイザーと一緒なんだけど、当時単音しか出ないのね。だから6台並べて。でその録音など残ってるよ。
細:見たい。
村:その曲の録音。 その時の録音じゃないけど。でそれをまた3人が見る。 それで書いたセリフは僕の想像なんだけど、あの川添さんが言うわけ。「これは素晴らしいね。 楽器だと西洋の伝統的なバイオリンだとか、そういう楽器じゃない電子楽器で日本の音楽をやって世界中に広めたらきっと面白くなるだろう。ただ、まあ、俺の年代では無理だろうと俺の次の年代がそういうことをやるに違いない」っていうのを書き込んでるわけ。 それで30何年経って1970年に川添浩史はあの富士銀行の富士パビリオンっていうのを万博でやり、岡本太郎は太陽の塔っていうのは作り、坂倉準三は電気館っていうのを作ってこの三人が日本初の大阪万博でやることになったのね。その前の年に坂倉さんは亡くなる。設計を終わって。そして川添さんは全部終わって開幕寸前に亡くなって、岡本さんだけはその後生きた。
細:ずいぶん長生きしましたよね
村:そういうストーリーなんですよ。
細:その現場にいたわけですね。
村:そうです。
細:そりゃすごいな。やっぱりキャンティってのは今もあるんでね。 あこがれのお店になってますよ。 みんなの。
村:そうですか?なんか周りにさ巨大なビルができちゃってキャンティが押しつぶされそうでさ。 未だに木造のなんかね2,3階の小さい建物でね。
細:はい、話を尽きませんのでこの続きはまたラジオ以外でやろうと思います。村井邦彦さんでした。 ありがとうございました。
村:こちらこそありがとう。