私がモテた?かもしれない話

 先日娘夫婦が里帰りしました。あいにく私は用事があり夕食を共にできず、出かけるとき娘婿に帰ってきてから呑もうと言って出かけました。そして帰ってきたとき妻と娘・孫娘は何かに夢中になっていて、二人だけで呑みました。いろんな話をしながら酔っ払った私は(妻に言わせると私はいつも変な話をすると決めつけられますが・・・)、もしかして今の娘が生まれていなかったかも知れないという話を始めました。そうすればお前とも知り合うことはなかったよなぁと言う結論です。

 本にも書きましたように学生時代に椎間板ヘルニアになり留年・休学して手術をしました。そして医師さえも驚くほどの回復を見せ、元気になり入学後5年目の3年生になりました。これも本に書いたように私の趣味はオーディオ機器の製作です。元気になったのでそちらも再開しましたが、部品代がありません。今更親に部品代のために仕送りを増やして欲しいとは絶対に言えません。そこでバイトをしようと思いました。学生のバイトと言えば真っ先に思うのは家庭教師です。大学の学生課でその斡旋をしてくれているので行くと、学生が一杯です。皆考えることは一緒ですね。そして求人票を見るとあまり良い条件のものはありません。そして受付日を見ると、ここ数日のものばかりでした。ところが1枚だけ1週間以上前に受け付けられているのがあり、週1回日曜日だけなのに親からの仕送り額以上の報酬という破格のものでした。何故と見ると大学のある市からバス・電車で1時間以上離れた町の高校生でした。理由は納得しましたがよく見ると私の下宿している近くにバス・電車の停留所・駅があるのです。その交通費込みですが、やはり破格です。そこでここに決め、連絡を取ってもらうとOKとのことで次の日曜日に出かけました。5月頃の日曜日1時前にバスに乗り2時前に相手の家に着くと開業医をされている家の女子校2年生でした。そして4時過ぎまでその相手をして終了するとお母さんが「さあ夕ご飯食べて下さい」とご馳走を用意してくれていて、ビールも勧められましたが、私は飲めませんでしたので断りましたが、次回には黒ビールを用意してくれていたのですが、それも断りました。その分豪華な食事が終わるのは最終バスが来る直前です。そのバスで最寄りの電車の駅に行き下宿に着くのは8時過ぎでした。ですから往復に2時間、教師で2時間、食事が3時間というのが日曜の午後からの日程になりました。もちろん下宿の晩飯は断りました。家庭教師としては結構いい加減だったように思いますが、クレームが来ることはありませんでした。そして、7月にはお母さんから今度大学のある市まで行くので、一緒に昼食を食べましょうと言われて貧乏学生では行ったこともないレストランで食事をして、お中元だと三越の包みをいただきました。その頃三越は上流階級御用達で入ったことはありますが買ったことはありませんでした。また高校2年生は日曜日も学校行事や校外模試もあります。一番すごいときは月に1回だけしか行けない時もありましたが、報酬はそのままでした。12月にもお歳暮をいただいたように思います。そして3月になりましたが、私は大学院に行こうと決めていました。しかし勉強はしていません。そのため日曜日は受験勉強に使うと決めていました。そして最後の日にこれで終わりにして良いですかと聞きました。ご両親はびっくりされるし女子生徒は「私が馬鹿だから嫌になったんですね」と泣かれました。そういうことではなく大学院受験のために日曜日は開けたいと申し上げて何とか納得していただいたのですが、お母さんから今度3人で大学のある町で最後の昼食会をしましょうと提案され、また行ったこともないようなレストランで食事しました。その最後の頃になって生徒から「先生と映画に行きたい」と言われました。「何かみたい映画がある」と聞いたのですが、特にないというのです(今考えればええ加減に気がつけよと自分に言いたい)。お母さんが気を利かして「私は買い物をするから、最終バスの時間まで二人で行ってらっしゃい」と言われたので、バス停が見えるところにある映画館に行きました。教えられていた最終バスの時間の少し前まで映画を並んでみて、映画の途中でロビーに出て外を見るとバス停にお母さんの姿が見えました。阿呆な私は「もうお母さんのところへ行き。私は映画が途中だから最後まで見て帰る」と言い、館内に戻りました。今なら阿呆としか言い様がありません。その女の子とはそれが最後でしたが、お母さんからはその後も時々女の子の現状・主に進学先について連絡をいただきお話しさせていただいていました。最後は12月に最終志望校を決めるのにどこが良いでしょうかと電話をいただいたのですが、文系の私立大学については分かりませんと言うしかありませんでした。

 あれから数十年が経ちます。東日本大震災が2011年に起こり2012年秋に原発反対運動に関わった友だちに会いに行きました。空港に着いた日は県庁所在地に泊まり、次の日に友だちと会う約束だったので、電話すると急な用件が入ったので別の日にして欲しいとのことでした。1週間ほど滞在する予定だったので最終日に会うことにして、空いた時間をどうしようと考えた時、この家庭教師時代を思い出し、もうご両親は亡くなられていると思うが、生徒のお姉さんが薬学部に在学中だったので今頃は婿養子を取って後を継がれているに違いないから、仏前にお参りさせていただこうと出かけました。その町に着きましたが、家が分かりません。もしかして津波で流されたかも知れないと、周囲を見渡していると遠くに女の人が見えました。急いでそこに行き、お話しさせていただくと、津波の話になりここの前の家まで流されて、ここは何とか残ったのだと言うことでした。そしてこのあたりにあった開業医のことを聞くと、少し高台のところを教えてくれましたが、ご両親は亡くなられ今は誰も住んでいないと言うことでした。その大きな家の前まで行き、いろいろ考えていると昔のことを思い出しました。そしてあの時うまく立ち回ることができていれば、私はここに住んでいたかもと思いました。ミッション系の女子高生だったので近くで男性を見るのは私が最初だと思われるのです。私の大学院受験勉強は日曜日にするとしても試験が8月だったからその後は可能だったし収入もあったのに。また生徒は大学のある市まで通学していて土曜日の午後は二人とも開いていたはずなので、一緒に帰ったり、通学路の途中にある私の下宿で教えることもできたのにと思いつきました。うまくこの子を誑かして高校最後まで教え、この市にもミッション系大学はあったので、そこを受験させていれば私の大学院時代は阿呆な教授とドンパチせずに「叱られるときは頭を下げろ。小言頭の上を越す」と彼女と会うことを最優先していたのではないかと思いました。また気配りのできるお母さんでしたので、教授への付け届けもしてくれたかも知れません。そうなれば博士課程の進学も許され(できるかどうかは教授の胸先三寸で決まるから)、まだこの近くに住むことができていたなら、住所はここだろうと思ったのでした。

 しかし、こんな話を娘婿にする男は大丈夫か?



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