なめられている先生の私
教師仲間から、そして生徒からも「生徒になめられている」と言われていたことが多かった。教師になる前・なって数年間の私は「生徒が私に親近感を持っているからだ。もし本当にそうなら、完全になめきってみせて。そうできたなら私はそれまでの人間だから、なめられても仕方が無い」と答えていたと本にも書きました。その後教育学の本で生徒が教師が言うとおりに従うのは、「この先生には何を言っても聞いてもらえないと思っているから」、この先生なら自分の言うことを分かってもらえるかもしれないと感じられる人には発言してくるのであって、教師の威厳等には全く関係が無いことを知りました。しかし生徒が文句を言わないのを威厳があると勘違いしている先生の何と多いことか。
こんな勘違いもありました。昭和40年代に土居健郎著「甘えの構造」が出版され人気というよりは流行語になりました。私もその頃読んで、日本人は「甘え」の概念を抜きにしては理解できないのだと理解しました。善悪判断はなかったと理解していました。ところが昭和50年代後半になり、生徒が多様化して教師の指導に従わない者が増え、生徒指導が厳しくなり厳罰化しようという動きが顕著になりました。その時の教師の言い分は生徒が指導に従わないのは「甘えの構造だ」でした。最初聞いたときは、あの本にそんなこと書いてあったのかとびっくりしました。学生時代に読んだから読み違えたのかと、また読み返し、自分の読後感は間違えていないと確信しました。たしかに日本のものはすべてだめで、欧米化しなければならないという風潮がありました。しかし、実際は「おまえらは俺のいうことを聞け」という先生方のご都合主義を正当化しようとする動きでしかなかったと思っています。