分かり合えなさを噛みしめながら生きる 【265/200】
学べば学ぶほど、出会えば出会うほど、いかに自分が無知であるかを実感します。
今週は、久しぶりにSocialSalonに参加することができて、アンラーンの機会を持つことができました。
友人でもあるかっちゃん(勝又栄政さん)の著書「親子は生きづらい〜“トランスジェンダー”をめぐる家族の物語〜」に関連した対話プログラムで、今回はかっちゃんともう一人、筌場彩葵(うけばさき)さんをゲストに迎えて、トランスジェンダーに関するトークと、それを聴いての対話の3時間。
本当にたくさんの答えのない「問い」が生まれ、今でもずっと頭の中を巡っています。
▪️勝又栄政さん
▪️筌場彩葵さん
性に限らず、例えば年代や血液型や星座や出身地や肌の色や国籍や宗教や好きな音楽のジャンルでさえ、僕たちは分けたがり、分類したがり、自分がどこに所属しているのかを知りたがります。
これは、どこから来ているのでしょうか。
今、こうやって言葉を使って自分の思考や気持ちを表現する中で、僕自身、細かく物事の定義を最も近いと思われる言葉に当てはめ、自分の言いたいことを自分以外の人にも伝わる形で表現したい欲求に駆られているのは、これはなぜなのでしょうか。
対話をするならば、お互いを理解し合おうとするならば、言葉を尽くして、その違いをお互いに知ろうとすることが大切だ、ということは、これは間違いないことだと思います。
でも、それは同時に、お互いを様々な切り口で定義し、分類することによって、マイノリティを生み出し、時には深刻な生きづらさを背負わなければならない人たちを生み出すことにもつながっています。
僕らはこれについて、何を思い、どう考えて生きていくべきなのでしょうか。
この問いについて真剣に考えるようになってから10年以上経って、その答えは全く出ていません。
対話の中で、同じグループの方から、素敵な言葉をもらいました。
本当にそう思います。
僕らはエゴの塊だから、良かれと思う気持ちと自己満足がすぐにないまぜになって、「分かりたい」と思ってしまいがちです。
「分からない」よりも「分かった」と思いたいし、そう思えるように努力しないと、なんとなくいけないような気がします。
でも、現実はそんなに簡単に「分かった」と言えるようなことって少なくて、自分以外の人の(いや、おそらく自分自身のも含めて)「生きづらさ」というのは、おそらく一生かかっても「分かった」などと言えるようなものではないのです。
知れば知るほど、その複雑さややり切れなさについ弱気になります。
「分かりたくても、そんな簡単に分かるようなものじゃない」
僕たちがうまく言葉にできずにもやもや考え続けていることは、そういうものばかりです。
だからこそ、その「分かり合えなさ」を、まずしっかりと受け止めて、噛みしめること自体に、大きな意味があるような気がするのです。
「分かり合えなさ」に対して自覚的に生きる、ということが、エゴのバイアスから少しでも離れて物事を客観的に見るための、とても有効な心構えな気がするのです。
驕らず、侮らず、落ち込まず、自暴自棄にならず、地に足をつけて生きていきたいものです。
noteを読んでくださりありがとうございます。 歌を聴いてくださる皆様のおかげで、ヤマカワタカヒロは歌い続けることができています。 いつも本当にありがとうございます。