いいねの地獄と、アンチいいねの奈落(あるいは「いいねの物神化」と承認欲求からの離脱)
今日は割とクリエイティブ業界、写真界隈的には刺激的な話をします。と言っても基本的に僕は穏便な人間ですので、話題は刺激的に見えますが、煽るような書き方はタイトルだけで本論ではしませんし、結論に至ってはおそらく相変わらずの五里霧中になります。それでも問題の輪郭を提示して次へと進んでいくためのたたき台くらいは作れるんじゃないかと期待しています。
そんな記事を書こうと思ったのはこの文章を読んだからです。
読まれた方も多いと思うんですが、写真やクリエイティブの評価をTwitterなどのSNSのいいね数を指針にすることに対する是非を考察した文章です。この種の話題は、多くの場合神学論争になりがちで、ガチガチの「いいね至上主義」と「アンチいいね主義」の二律背反で議論が進みがちな状況において、プライベートな煩悶に根ざした、極めて率直で実直で正直な文章が書かれています。さすが高埜さんだと、感服したんですよね。
で、今日僕が書くのもその話です。つまり「いいね至上主義」と「アンチいいね主義」の問題。というか、その相克がもたらす意味のない消耗戦的地獄を回避したいという文章を書く予定です。
高埜さんが極めてプライベートな感情に根ざしてこの問題にアプローチされたので、今回僕は可能な限りドライに、経済的に考えてみたいと思います。ここから先は、写真や芸術の「アート」の文脈(すなわち美学的な観点)を無視して、広告的かつ商業的な側面(すなわちメディア的な情報戦略的な観点)から見た、写真やクリエイティブの話をします。仕事で写真やクリエイティブに携わっている方々に向けた思考実験と捉えてください。結論を先に書きますね。
と、これが結論です。かなり圧縮してるので、分解が必要になります。以下、個別論に入りますね。
ちなみに上の結論をさらに圧縮して一言にまとめておきますね。「いいね至上主義もアンチいいね主義も極端すぎ」って感じです。神学論争になっちゃいがち。みんなもうちょい仲良くしよ、ってのが僕が言いたいことです。ラブアンドピース。
では、以下個別に分解していきます。
(1)いいね至上主義の地獄
最初にも書いたし、もう一度断っておきますが、今回の文章は可能な限り感情を排除してドライな言葉を選んでいます。感情に訴えかけて書く必要がある時と、ロジックで書くべき時は、きっちり区分けせねばならないからです。今回は後者です。なので、選ぶ単語は実にドライに見えるかもしれませんが、ご了承くださいね。
さて、では話を始めましょう、まずこの話題をとっかかりに。「いいね」のコスパについてです。今や「1いいね」の価値は加速度的に減っています。経済的に考えれば当たり前で、SNSにおける「貨幣」や「通貨」とも言えるユーザーの総数、そしてその人たちが生み出す「いいね」が増えれば、一つの「いいね」の価値は昔より低くなる。当たり前の話ですね。100人の世界の「10いいね」の方が、100億人の世界の「10000いいね」より、圧倒的に貴重ってことです。
こうした状況に拍車をかけたのが、SNSにおける写真やクリエイティブのコモディティ化の問題です。詳しくは2年前にこんな文章を書いているので、よければご覧になってください。
簡単にまとめると、SNSの強烈な拡散力によって、一瞬で「新しいクリエイティブ・写真」が消費し尽くされる状況になったのが現在である、みたいな話を展開しています。
「いいね」のコスパの低下と、「SNSにおけるクリエイティブのコモディティ化」という二つが絡み合って出来上がった状況は、皆さんも日々直面されていると思います。毎日誰かがバズってますね。インフルエンサー的なクリエイターの投稿には、毎日万単位の「いいね」や「リツイート」が付いています。昔だったら一大事です。
僕がSNS上に写真を上げ始めた頃、クリエイティブに万単位の反応が観測されるのは、一年に1度あるかないかでした。だから、何か写真がバズったら、その人は一気にスターダムに上がっていくような、そんな状況でした。
でも今、写真がバズったところで、せいぜいどこかの小さなウェブメディアが記事を書いてくれるくらいではないでしょうか?これを見てくれてる多くの人が、1度や2度ではなく「万バズ」を経験されているのではないかと思います。
もし今、かつての「万バズ」と同じような一つの投稿で人生が変わるような状況になるためには、50万いいねくらいの状況が必要になってる気がします。つまり、「いいね」の価値は、経済的に「1/50」程度と見積もるべきでしょう。もしこれが企業の株だったり、通貨だったりしたら、会社や国家が破綻するレベルの価値の下落です。
ここまでコストパフォーマンスが落ちた「いいね」の価値なんですが、それにもかかわらず、一つの作品を生み出すために必要なクリエイター側のリソースは、かつてと変わらず高いままです。たとえば風景写真を考えてみましょう。
一枚の風景写真を生み出すためには、少なくとも現地にいかなきゃいけません。交通費も時間も体力もかかるわけです。加えて、もう都市から近場で簡単に撮りに行けるような写真なんて、先行しているインフルエンサーたちが食い尽くしてしまっている。目新しい場所はより遠いし、よりアクセスが困難だし、仮にそこに到着したとしても撮り方も工夫しなくてはいけない。にもかかわらず、新たな手法やアイデアはもうやり尽くされて存在しないように見える。
こうして「いいね」のコスパは落ちているにもかかわらず、それを生み出すリソースは変わらないどころか、おそらくもっと高騰している。この反比例は今後もっとシビアになります
このような状況において「いいね」を求め続けるのは、まさに修羅道を突き進むが如くのつらい状況であることは明白です。クリエイター側は極めてしんどい状況にあるんです。
では、クライアント側の視点からはどうなるでしょう。新規のクリエイターを探さなくても、10万20万のインフルエンサーなんて今や掃いて捨てるほどSNSには転がっています。その一人をチョイスして、KPIを見込んで発注すればいいのでしょうか?残念ですが、それももうクリエイター側と同じ理由によって、今後は成果が少なくなっていきます。
一つの「いいね」が軽くなっている以上、KPIの指標になるようなインプレッションやアテンションもまた、同じく価値の相対的な低減を余儀なくされます。ひたらくいえば「数字だけは上がっているのに効果は出ない」という状況に陥るでしょう。数字が上がっているのに効果が出ないのは、その数字、「いいね」や「ユーザー数」の母数が増えすぎてて、希釈されてしまうからです。
ちゃんとした企図や美学がないままに、数字だけを求めたインフルエンサービジネスは、今後どんどん淘汰されて消えていくことになります。
(2)アンチいいねの奈落
一方、溢れかえる「映え写真」と、それに集まる「いいね」に対して、完全に背を向けようとする姿勢、これを「アンチいいね」と呼ぶならば、それもまた仕事として写真やクリエイティブを取り扱う以上、冷静さに欠いた行動と言えます。
SNSでのバズが、今後はどんどんとコスパが悪くなっていく一方で、現段階においては一定の経済効果をまだ生み出しています。現状においては、仕事としてクリエイティブを考える時、「いいね」を獲得することは、まだある程度考慮しなくてはいけません。
少なくともクライアントは、成果品であるクリエイティブのKPIを測らなくてはいけないし、KPIの基本はインプレッションです。その効果がどんどん下がっているとはいえ、「数字の持つ明示性」に対して、美学的な反論をするのは、悪手と言えます。平たくいうと、「バズってる写真はクソだ」というのはあくまでもパーソナルな好悪の問題であって、その個人的な「好悪」が仕事としての写真やクリエイティブの費用対効果を悪化させてしまったら、元も子もないわけです。(念のため繰り返しておきますが、この記事は写真の美学的観点は今回考えないという前提です)
もちろん、バズってるクリエイティブの多くに対して背を向けたくなる気持ちはわかります。そうした写真の多くが、「映え」のロジックを最大限に取り入れていて、その戦略的なあざとさに辟易してしまうのも無理はありません。また、自らのクリエティブがそうした「映え映えのバズ」とは違うものである場合、今のアテンション経済が横行するSNS中心に動くクリエイティブに対して、まるで最初から不利な条件で試合に強制的に参加させられているような苛立ちを感じることもわかります。数字だけが一人歩きし、フォロワー数や「いいね」の数が何か偉大なことやすごいことの証明のように扱われる現状に対して、僕自身も虚しさを感じることも多々あります。
一つ前に書いた記事の中で僕は「圧倒的なクリエイティブはあらゆる他の問題点を隠蔽する」というようなことを書きましたが、それは数字にも言えます。「圧倒的な数字は、あらゆる他の問題点を隠蔽する」。札束で顔面を殴るが如き、数字の持つ暴力性を前にして、それに中指を突き立てたくなる反抗心に対しては、僕もまたずっと心にロックを抱えて生きてきた人間ですので、心の中では賛同したくなります。
でもそれは、繰り返しますが悪手です。美学と現実了解は、あるところで線引きをしなくてはなりません。そしてアートとビジネスも、あるところでは相思相愛なのに、あるところでは不倶戴天の敵になることもまた、この現実世界ではよくあることです。
では、こうしたもどかしい現実に対して、我々はどんなふうなリアクションを取るべきなのでしょうか。
最初に引用した高埜さんの文章をもう一度見てみましょう。その中にこんな一文があります。
高埜さんのこの記事は全体として「いいね至上主義」の地獄を退ける強い意思があると同時に、引用部分はまさに「アンチいいね」という奈落へと至らないための自制心が働いています。「両極端な感情に体を引き裂かれるような感覚」を、普通の人は見ようとしないんです、つらいから。でも高埜さんはそれを直視する。僕がTwitterでこの記事を紹介した時に感じた「知的誠実さ」とは、まさにその部分でした。
「いいね」を否定するときに人が感じる「忘れられるかもしれない」という不安に対してしっかり目を向けないと、「いいね」への反発心は外にある「いいねの地獄」を自己の内側に反転させただけの奈落になります。いいねへの強烈な執着心が反転して、憎悪になった感情、これこそ「アンチいいねの奈落」というべき状況ではありませんか。
このフォースの暗黒面に落ちるが如き執着と憎悪の二重螺旋構造は、どの時代にも、どの領域においても、どのテーマにおいても常に文学の題材になる、僕のような「文学研究者」には実に美味しい部分なんですが、今日はそういう話ではありません。現実的には執着と憎悪の反転は、いいことは何も生み出さないんです。基本的にはスカイウォーカー一族を目指すんではなくて、ハン・ソロが美味しいポジションなんです。善悪相克じゃない、盗賊のかっこよさですよ。ルパン3世だってオシャレでしょ。そういうのがいいんです。え、今の時代、ルパンもコンプラ守るべきですって?「コンプラ・ルパン三世」、そんなものは五右衛門に斬鉄剣でぶった斬ってもらった方がいいです。んで、「またつまらぬものを斬ってしまった」言わせるんです。テンプレ最高ですね。
脱線してしまいました。文学研究者の悪い癖です。話を戻しましょう、「愛と憎悪の二重螺旋」みたいな昼ドラ路線は抜け出して、そこから何かを取り出さなくてはいけない。「いいね至上主義の地獄」と「アンチいいねの奈落」を突き抜け、次の世代に架橋するための橋頭堡を作り出す。
僕のようなある程度歳を取った人間がやるべきなのは、魔女狩りなんかには目もくれず、そういうところに残り少なくなってきた時間をかけるべきなんです。さてでも、それはそんな簡単に見えてくるものでしょうか。次に話題を移していきましょう。
(3)「いいねの物神化」
「いいね至上主義」が目に見える地獄なのだとすると、それに対して全否定を叩きつける「アンチいいね主義」は、鏡に反転している自己の強烈な不安や、もてはやされている人物や作品対する執着や嫉妬が鏡像として立ち上がったものであるということをここまでで確認しました。それら二つの感情は、いいねに対する一種の強迫観念です。コインの裏表の感情なんです。だから、その強迫観念を生み出している原因とロジックを追求せねばなりません。
そのロジックを辿るために見るべき構造体は、2010年代後半以降、「いいね」が作り上げた2020年代の経済システム、そう「アテンションエコノミー」という枠組みです。
人の「注意」や「可処分時間」を奪い合うことで経済が回っていくアテンション経済においては、お金に加えて「いいね」が経済を動かします。経済を動かすには「いいね」をただひたすら集めなくてはいけないし、集められる人やモノやクリエイティブやアクティビティがもてはやされるようになりました。
かつてマルクスは、単なる交換機能しかないはずの「お金」に、それ自体価値が宿っているような錯覚を人類が覚え、支配されてしまうことを「物神化」「物神崇拝」と呼びました。商品、貨幣、資本と物神化が進んで来たのが人類の経済の流れですが、今や「いいね」こそが「物神化」していっているんです。我々が迎えている2020年前半は、いわば「いいねの物神化時代」と呼ぶことが可能だということです。
ことここに至り、我々がSNSの深い沼にハマって動け出せず、まるで中毒のようにそこに耽溺するのは、単にそれがよくできた楽しい時間潰しだからではなく、マルクスがかつて資本論で語ったスケールの巨大な経済的枠組みに、今や我々の社会全体が否応なく巻き込まれているからです。
だから問題は複雑だし抜けづらい。単に「たかがSNS」ではないんですね。「いいね至上主義」も「アンチいいね」も、もはや経済に対する自分の態度そのものを反映しかねない事態にまでなっているわけです。
(4)「いいね」を防ぐ「絶対恐怖領域」
と、ここまできて、「いいねの物神化って言っても、お金で考えたら拝金主義みたいなもんでしょ?これまでと同じ現象じゃないの?」とおっしゃる方がいるかもしれません。
確かにその通りなんですが、物事をややこしくしている要素は、SNSにおける「いいね」が、物神化を経由して「アテンション経済」をめぐる「通貨」にまでのし上がっていったその直前、そもそも「いいね」は、強烈な「承認欲求を満たす装置」として機能していたという部分が、物事をややこしくしているんです。「いいね」を獲得する過程の内側で、経済的欲求と精神的欲求がコンタミネーションを起こしているんです。
もちろん、お金も人の「承認欲求」に繋がってもいますし、人は誰しも、誰かに認めてもらいたいと持っています。殊更「いいね」においてだけその問題が出てくるわけではないんですが、それでもSNSにおける「いいねと承認欲求の関係性」は、不安ばかりが前景化している現在にあっては、まるで耳元に囁かれる甘い夢のように、人をその中毒の深淵へと引き摺り込んでいきます。つまりSNSにおける「いいね」は
という、強力な二つの支配力を持つ「物神」になっているわけです。それは人が生きる限りそこから逃れることはできない、「人間関係」と「経済関係」という、凄まじく広い領域を「いいね」が横断的に含み込んでしまっている。だから問題がややこしい。
つまりインフルエンサーのような巨大な「いいね」を集める人たちは、感情的な指標である「承認欲求」と、経済的な指標である「いいね通貨」との一挙両得を得てしまう人たちで、だからこそ広大なフィールドに魔術的な影響力を放つ存在になりました。だからこそ、問題はこじれにこじれます。「いいね」は常に、感情と経済の二重の「羨望」「執着」「嫉妬」を同時に引き起こすからです。
世界はSNSという磁場を中心にして歪み始めてしまいました。そこはあたかもSFの多世界解釈のように、一つの数字が常に二つの指標を同時に歪ませるんです。
いよいよそれを正し始めているのが現在で、SNSにおけるアルゴリズム導入などはその一例でしょうが、それはあくまでシステム側が仕掛けている操作にすぎず、我々個人はこの状況において、どんなメンタルでどの方向を目指して歩いていけばいいのでしょうか。それこそが「いいね」と「承認欲求」を分離する個人的な心性であると思っています。いわば「ATフィールド(Absolute Terror Field)」ならぬ、「AFフィールド(Absolute Fav Field)」を展開する時が来たんです。「いいね」を心の内側に入れない。そこは「絶対恐怖領域」として守らなくてはならない。もはやノリで言っちゃいますが、ヤシマ作戦思い出してくださいね。でんでんでんでん・どんどん。
「いいねを通貨でなくすこと」は、個人側では不可能です。どうしても経済的な価値は発生してしまうし、僕らは経済なしには生きていけない。むしろその部分は冷静に計算に入れなくてはいけない。だからこそ、「いいね」を感情的指標である「承認欲求」と切り分けて、ドライに管理できる心性を身につけること。こうなってくるとPSYCHO-PASSの犯罪係数ならぬ、「承認欲求係数」を計りたいところです。シビュラシステムが欲しいですね。ラストに向かって、加速度的にアニメ的世界観で攻めてます。
話を戻しましょう。もちろん、それは個人が簡単にできることではない。というか、それができたら苦労せんのです。むしろ先ほど申し上げたように、プラットフォーム側がアルゴリズムを導入して、「いいね」を可視化しない(非承認欲求化)、あるいは「いいね」が通貨のように循環しないシステム(非経済化)を作るのが、まずは最前なような気がします。
でもそのシステムが現れたときに、我々の方に準備ができていないと、それはまた「新しいアルゴリズム」に操られて、自己を再び違う方向に喪失するだけの過程を踏み直すだけのように思うのです。
プラットフォーム側が現状を変更しようとしている今だからこそ、ここまで我々は約10年近く振り回されてきたインターネットにおける「承認欲求」の問題にケリをつけなければならない。そのために、今から少しずつ準備が必要だと思うのです。今日の記事は、まずは叩き台です。この上に、色なものを少しずつ組んでいかなきゃいけません。それはまた次回以降に。