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書くことが楽しいという気持ち

どこから道を間違ったのか思い出せない。

ただ、数年にわたって「書く」という行為に向かう足取りが重たくなってしまっていたのに気づいたのは、本を書きおわり、その勢いのままにレターというサービスを始めた時、「あれ、書くってこんなに楽しいことだっけ?」と感じた瞬間だった。それは意外なほどの驚きで、それというのもそもそも僕は書くことが苦手だと思っていたし、書くことがある種の強迫観念にもなっていたから、書くって楽しいって思ったことは、無いと思っていた。必要に駆られて動き出す、食欲や睡眠欲みたいなものに近い行為。それが僕に撮っての「書く」だったような気がする。

でも、多分誤解だったのだ。食欲や睡眠欲にも、「いい食事」と「いい睡眠」があるように、書きたいという衝動に対して、自らをあえて傷つけるような書き方や、抑圧された書き方だけではない、自己の魂のあり方に寄り添う言葉の選び方ができた時、僕はおそらくずっと救われてきたのだ。村上春樹がかつて、文章を書くことを「自己療養」と規定したように、書くことは僕にとっても、本当は自己療養だったのだ。ただ、それに気づかないふりをしていた。自分はとても強い人間だと思っていたから、癒やされるよりは戦いたいと願ってきた、そんな気がする。

気づかないまま、ずいぶん傷が深くなり、いよいよ魂が折れそうになった時、ようやくボロボロになった自分に気づいたのだ。それに気づいたのが昨年の10月頃。そしてそこから本の執筆もようやく始まった。

本の後に、自分自身のための言葉を書こうとして選んだのがレターというサイトだった。

あえてメルマガという古い媒体を選んだのには訳があって、noteというWebの海の中で誰が読むかわからない場所に文字を書くとき、僕の中で古いモードが再起動する予感があるからだ。プライベートでいること、そしてそのプライベートを可能な限り「あなた」に届けようという意思を持ち続けること。そういう極めて秘史的な一通を書くことによって、僕自身の「書くことのバランス」を保てるのではないかと考えたのだ。

じゃあnoteはやめるのかというと、そうではない。書くという行為は、いわば自己の魂にとってのリスクヘッジのような側面を持っている。日常生活での自分の言葉、SNSでの言葉、noteでの言葉、レターでの言葉、それらは全て「わたし」から発している僕の言葉だが、少しずつそれらは「わたし」本体を意識的に、あるいは無意識的に欺き、変容させるだろう。そしてそれが希望であることは、本の中で散々書き尽くした。語ることは騙ること、その欺瞞を引き受けながら、わたしは私を目指していくのだ。それが2020年代の僕のやりたいことなのだろう。

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別所隆弘
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